第1627日目 〈マカバイ記一第11章1/2:〈エジプト王の野心と死〉、第1627日目 〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉&〈ヨナタンにあてたデメトリオス王の書簡〉withパートナーはお前だけ。〉 [マカバイ記・一]

 マカバイ記一第11章1/2です。

 マカ一11:1-19〈エジプト王の野心と死〉
 プトレマイオス朝エジプトの王プトレマイオス6世は、同盟相手アレキサンドロス・バラスの領土を狙って策略を練り、海と陸からなる軍隊を召集、編成していた。
 プトレマイオス6世は友好的な態度でシリアに入り、通過する町の住民から歓迎を受けた。というのも、プトレマイオス王はアレキサンドロス王の義父であったので、特別に歓待するように、という指示が出されていたからである。エジプト王は住民たちにも友好的な態度を崩さなかった。ゆえに自軍を駐屯させることもさして難しいことではなかった。
 また、アゾトの町に近附いた王とその一行に土地の者たちが寄ってきた。土地の者たちはヨナタンが焼き払った町の荒廃した様子、埋葬されることなく放置されたままな住民たちの亡骸を見せた。しかし王はそれに心動かされることはなかった。実を言えば、死体は王が通ることを知った土地の者たちがあらかじめ道に山積みにしていたのだった。一方で王が黙ったままでいたのは、いずれシリアにこの光景が拡大するであろうことを予期していたからだ。
 ヤッファの町に到着したエジプト王を、威儀を正してヨナタンが出迎えた。2人は挨拶を交わして、夜を明かし、翌朝エレウテロス川で別れた。ヨナタンはエルサレムに帰った。
 その後、プトレマイオス王はアレキサンドロス・バラスとの同盟を破棄し、新たにシリアの王デメトリオス2世と協定を結んだ。このエジプト王は、以前アレキサンドロス・バラスに嫁がせた娘クレオパトラ・テアを取り戻してデメトリオス2世と婚姻させ、締結済みの協定と同盟をより強固なものとした。「こうして彼はアレキサンドロスとたもとを分かち、二人の間の敵意はあらわになった。」(マカ一11:12)プトレマイオス6世はセレコウス朝シリアの首都アンティオキアに入り、アジアの王の冠を得て、エジプトとアジア両方の王冠を戴く者となった。
 アレキサンドロス・バラスは反乱鎮圧に赴いていたキリキア地方でエジプトが同盟を破棄、デメトリオスと協定を結んだことを知った。かれは直ちに反転してプトレマイオス征伐に向かったが、エジプト軍の攻撃に遭って敗走を余儀なくされた。アレキサンドロス・バラスはアラビア地方へ逃げ込んだが、彼の地でアラビア人ザブディエルの剣で首を斬られて命を落とした。首は献上品としてプトレマイオス6世へ贈られた。
 が、そのプトレマイオス6世も3日後に崩御した。シリア各地の砦の町へ駐屯するエジプト兵たちは、王の崩御を知って蜂起した住民によって皆殺しにされた。
 ──脅かす者はいなくなった。政敵はいずれも世を去った。斯くして前146年(第167年)、デメトリオス2世はセレコウス朝シリアの王位に就いた。かれの目の上のたんこぶは今やユダヤのヨナタンだけであった。

 マカ一11:20-37〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉
 プトレマイオス王とヤッファで会見した翌朝、ヨナタンはエルサレムに帰った。未だ完全奪回に至っていないエルサレムを再びユダヤ人の都とすべく、攻城機を組みあげたり町を包囲したりして、攻撃の準備を進めていたのである。
 この様子を、同胞ユダヤ人を憎み、律法に背く不埒者どもがデメトリオス王に報告、ヨナタンを讒訴した。王は憤慨し、ヨナタンに対して早々にエルサレムの包囲を解き、プトレマイオスの町に来て釈明するよう求めた。が、ヨナタンもすぐには返事をしない。エルサレム包囲を続けさせた。そうしてイスラエルの長老たちと祭司たちから同行者を選んで危険を顧みずエルサレムへ侵入、多くの金銀財宝を奪ってきてからプトレマイオスの町へ出発した。それは頑なになっていた王の態度を和らげるための土産品だったのである。事実、王はその金銀財宝を受け取ったことでヨナタンたちを歓迎したのである。
 再び、同胞ユダヤ人を憎み、律法に背く不埒者どもがデメトリオス王に接近して、ヨナタンを讒訴した。が、デメトリオス王はこれに耳を傾けない。かえってヨナタンとの友情を再確認し、かれを大祭司職に任じ、数々の栄誉を確かめ、自分の第一級の友人として遇するばかりでなくその筆頭格に据えたのであった。
 この機会にヨナタンはデメトリオスに以下のことを求めた。即ち、ユダヤ、サマリアから割譲・編入されたアファイレマ、リダ、ラマタイムの三地方、サマリアの租税の免除である。その代わり、300タラントンの支払いを、ヨナタンは王に約束した。

 マカ一11:30-37〈ヨナタンにあてたデメトリオス王の書簡〉
 前節のヨナタンの願い出を聞いた王は、それを了承する旨の書簡を記して、父ラステネスとユダヤの友人ヨナタンに送った。曰わく、──
 私デメトリオス2世はユダヤに対して恩恵を施す。つまり、ユダヤ、サマリア並びにアファイレマ、リダ、ラマタイムの三地方の全地域をユダヤ国民の土地とすることである。外地からエルサレムへいけにえをささげに来るすべての者から徴収していた、地の産物税と果実の税を廃止する。十分の一税やその他の諸税、塩税、王冠税、これらすべての税収をユダヤ国民に譲渡する。
 「今後永久に、これらの決定のうち一つとして取り消されることがあってはならない。」(マカ一11:36)
 それゆえ、ヨナタンは心してこの書簡の写しを作り、聖なる山の目立つ場所へ掲げるように。
──と。

 サマリアから割譲された地リダとはどこだろう? おそらく本章(マカ一11:34)が初出かと思われますので、備忘を主たる目的にしてちょっと書いておきます。この町の名前は、さんさんかが読書とノートに用いる新共同訳聖書巻末の地図6に載ります。ヤッファとエマオのほぼ中間にあるのがリダ。
 新約聖書「使徒言行録」第9章第32節にある挿話が、この町の名を読者の記憶に留めさせているかもしれない;「(使徒)ペトロは方々を巡り歩き、リダに住んでいた聖なる者たちのところへも下っていった。そしてそこで、中風で八年前から床についていたアイネアという人に会った。」
 このリダは少なくとも旧約聖書、旧約聖書続編に於いてはさして重要な役回りを果たさぬ町というてよいかもしれません。むしろこの町は新約聖書、イエス没して後の「使徒言行録」の時代に於いて(のみ)名が知られると申しあげてよろしいか、と思います。
 なお、「アファイレマ」はこれまでわれらは「エフライム」という名で知り、「ラマタイム」はサマリアの山岳地帯の町、預言者・士師サムエルの出身地にして埋葬地である「ラマ」という名でわれらは知っておりました。
 ここで読んだようにヨナタンは──というよりもユダヤは、先祖の都にして旧イスラエル王国/南王国ユダの王都エルサレムを奪還するには至っておりません。神殿を擁すシオンの山をどうにか取り戻したが精々の状態です。実質的な奪還にはヨナタンでなく次の指導者シモンの時代を待たねばなりません。イスラエルが完全に敵の軛から放たれる前143年(第170年)までには、ユダヤは幾つもの戦と悲しみを経験しなくてはならないのでした。
 あちこちでいわれていることですが、ヨナタンは権謀術数に長けた人であります。時の趨勢を見極め巧みに周辺の大国間を泳ぎ回り、都度優勢な側と協定・同盟を結び、結果としてユダヤ再独立、ハスモン朝勃興の道を整備した人でありました。とはいえ、斜め上からヨナタンを見た場合、日和見主義と当て擦られても仕方ないかな、と思うたりします。うむ。



 久しぶりの原稿となります。これは初めてMacBookAirで書く(清書/入力)する原稿であり、外にパソコンを持ち出して心地よい緊張感の下で書く原稿となる(なぜか近所のドトールにて)。そればかりでなく、約3ヶ月ぶりにATOKを用いて作成したものでもあります。
 一太郎ユーザーであり続けたせいもあるのかもしれないけれど、やはり自分にはATOKがいちばん馴染みます。ことえりやGoogle日本語入力で感じていた不満やストレスは、微塵も感じない。ただいま、ATOK。君がいちばん信頼できるよ。パートナーは君しか考えられない。◆

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