第1670日目 〈『文語訳新約聖書・詩編付き』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 過去最大級と謳われる台風8号の接近に伴い、大気は不安定になり、早くも列島西方に被害が目立ち始めている七夕の今日、みくらさんさんかは風邪をこじらせ寝こみ、会社を休んだ。敗北感に打ちのめされながらも本を手にして読むだけの気力と体力が残っていたのが幸いか。そのとき枕頭にあってたまたま手に取ったのは、『文語訳 新約聖書・詩編付』。今年1月に岩波文庫の新刊として出、店頭へ並んだその日に購ったものである。
 文語訳聖書は、今日複数ある日本語訳聖書の源である。本書解説によれば聖書の翻訳は江戸時代に始まっていた、という。キリスト教が禁じられていた頃から既に布教に備えて日本語に移し替えられ始め、明治12(1879)年には新約聖書が、8年後の明治20(1887)年には旧約聖書が完成。この明治元訳に基づいて大正6(1917)年、今日われらが一般的に「文語訳」という「改訳新約聖書」が完成、刊行された。
 この改訳は、英語圏に於ける欽定訳聖書(KGV)に匹敵するというてよい。擬古文で綴られたその文章は格調高く、黙読してリズムあり音読して耳に快い。こうした文章は和漢洋を融合して成ったものであり、大正期にはもうあまり使う人の少なくなった文体だけれど、その精華が翻訳に、しかもキリスト教の教典たる聖書に見られるのは、皮肉と取るべきか、諧謔と取るべきか。呵々。実際、文学史など繙いてみてもこの頃を境に文語体で書かれた作物は、すっかり影を潜めてしまうた様子である(文語体を駆使して史伝を書いた山路愛山は、改訳新約聖書の出版された大正6年に物故した)。
 今日、大きめの新刊書店に行って聖書のコーナーを眺めると、幾種類もの日本語訳が並んでいる。口語訳、バルバロ訳、新改訳、フランシスコ会訳、新共同訳。このあたりが代表選手か。戦後になって刊行されたこれらを読んでいると、日本語でありながらどうにも日本語として態をなしていなかったり、文意を理解するのにしばし悩んでしまうぐらい文章が乱れているケースに出喰わしてしまうことが、稀とはいえ、ある。ブログの原稿でもそのあたりに触れたことがあった。
 いままで読み得た範囲では、という留保附きだが、文語訳聖書を読んでいて、意味の通らぬ箇所に当たって悩まされた経験はない。すくなくとも日本語としての態はなしているし、文章の乱れゆえに文意を把握しかねる点もない。これから聖書読書を続けてゆき、新約聖書に入って一章一節を、腰を据えて読んでゆく段になれば、自ずと文語訳の粗も見えてくるかもしれませんが。
 現在いちばん読まれている、とされる新共同訳と文語訳を比較してみよう。批評や解説を加えるのではなく、文語訳と現代語訳を較べて、日本語の豊かさというものを改めて認識いただきたいのだ。新共同訳の新約聖書を当てずっぽうに開いて目に付いた箇所、即ち「コリント人への手紙」第13章第4-8節を、それぞれから引こう。曰く、──
 新共同訳;「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。/愛は決して滅びない。」
 文語訳;「愛は寛容にして慈悲あり。愛は妬まず、愛は驕らず、高ぶらず、非礼を行はず、己の利を求めず、憤らず、人の悪を念はず、不義を喜ばずして、真理の喜ぶところを喜び、凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事耐ふるなり。愛は長久までも絶ゆることなし。」
 そうして同書同章第13節より、──
 新共同訳;「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」
 文語訳;「げに信仰と希望と愛と此の三つの者は限りなく存らん、而して其のうち最も大いなるは愛なり。」
 文語訳聖書は日本語訳聖書の源であり、最高峰である。これまで価格や判型、置き場所の問題から購入を控えていた方。骨あり調べある日本語を堪能したい方。文学作品としての新約聖書に触れ、読むことを欲する方。近代文学や海外小説を愛好する方。そうした方々には『文語訳 新約聖書・詩編付』の読書を是非にもお奨めします。単行本サイズでリプリントされたワイド版も、先月刊行された。◆

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