第1727日目 〈シラ書第12章:〈相手をわきまえよ〉&〈友と敵について〉with今日のエッセイはお休みです。〉 [シラ書〔集会の書〕]

 シラ書第12章です。

 シラ12:1-7〈相手をわきまえよ〉
 施しは相手をわきまえてからにせよ。信仰深い人にのみ善き業を行え。あなたはかれに感謝され、また、報いも得られよう。かれから報いを受けずとも主があなたに報いる。
 悪事に耽る者、慈悲の心を持たぬ者、不信仰な人。これらに善行を施すなかれ。「不信仰な者には食べ物を拒み、何も与えるな。/さもないと、彼はそれで力を得て、/お前に立ち向かってくるだろう。/不信仰な者に施すあらゆる善い業は、/二倍の悪となってお前に返ってくるだろう。」(シラ12:5)
 主もまた罪人を憎み、不信仰な者を監視している。報復の瞬間が訪れるその日まで。

 シラ12:8-18〈友と敵について〉
 「幸福なときには、真の友を見分けられない。/不幸なときには、誰が敵かはっきりする。/人が幸福なときには、敵はねたみ、/不幸なときには、友でさえ離れてゆく。」(シラ12:8-9)
 友を装って近附いてくる敵がいる。斯様な輩を信用するな。奴の抱く悪意は、かんたんにあなたを悪へ染めあげる。そうしてあなたの心を、またたく間に蝕む。
 友と称す敵を警戒せよ。あなたの傍らにかれを侍らせるな。奴はあなたの地位を奪うだろう。警戒せよ、心に留めよ。そのときになって私の言葉を思い出しても、もう遅い。後悔だけがあなたに残る。同情する者はない。
 「敵は、口先では甘いことを言っても、/心ではお前を穴に陥れようとたくらんでいる。」(シラ12:16)
 敵の振る舞いを信じるな。奴の心は血に飢え、裏切りを謀っている。

 善行を施すなら信仰深い人をのみ対象とせよ。罪人や不信仰な人にはどのような援助もするな。施しをするなら相手をわきまえろ。著者イエススはそういう。もしくはその孫が、そういう。
 成る程、と思う。それもそうだな、と納得する。
 が、首肯できぬのもまさにその点だ。ユダヤ教はどうだか知らぬが、キリスト教には博愛と平等というイメージがある。ここでのイエススの主張とはずいぶんと異なるイメージである。ここにはギリシア的思想も反映しているのかもしれぬが、それにしてもこの針の振り切れっぷりはどうだろう。まさしく右から左。主への信仰の有無による差別化から博愛と平等に基づく慈善へ。或る意味で呆れ果てるよりない変身ぶりといえよう。敗戦直後の学校教育も真っ青である。
 ここで想起するのは、神の子イエスの存在である。東京は立川市でただいまヴァカンス満喫中のイエスではなく、ゴルゴダの丘で磔刑に処されて3日後には復活を果たした方の──本物の──イエスである(まぁ、同一人物といえば同一人物だが)。かれは生前、弟子を引き連れ各地でセミナーを開き、父なる神の愛と御業を説いて回った、という。それらの行状は4つの福音書や、或いは弟子たちの布教について語った「使徒言行録」や各地へ宛てた手紙などで知られる。そうしてそれらは新約聖書へ集約された。
 イエスの慈悲と慈愛、奇蹟を語る新約聖書が読み継がれてゆき、血となり肉となり、社会の基盤を形成し、思想を生んで、西欧に於ける福祉体制が成り立った。われらがキリスト教に対してイメージする平等と博愛に基づく慈善行為は、斯様な歴史と体制によって築きあげられたといえよう。
 ゆえにキリスト教お得意の慈善事業はあくまで新約聖書に基づくものであり、続編(外典)を含めた旧約聖書の内容、思想をいったん切り捨てた上で成立するものだ、と考えることもできよう。ならば、本章に於ける施しについて相反する印象を抱くのも宜なるかな、というところか。ふむ。
 ……〈友と敵について〉は、おそらく思い当たるフシのある者が多いはずだ。Your own worst enemy.それは誰か? 友と信じた人である。仲間と信じた人である。
 われらは、古くからの友人に優る友はない、という文言を数日前に読んだことがあった。本稿を書いていて、ふと、ああ、あれはこういうことであったか、と得心する。仮面をかぶった者に心を許して、身辺へ侍らせるな。薄情の人と友の契りを結ぶなかれ。根拠もなく容易く他人を信用するなかれ。警告;敵は身内にあり。さいわいとわが国には「飼い犬に手を噛まれる」ということわざが、ある。それを聖書に求めた場合、本日読んだ〈友と敵について〉という箇所になる。
 実生活に於いてなによりもこの警告が適用されやすいのは、やはり職場であろう。詳らかに述べることはしない。同じ立場にあった者がいつの間にやら昇進し、管理者側になっているのを見たとき、みにくい嫉妬を抱いて振る舞う者がいる。昇進した者にとってかれは変わらぬ仲間であるかもしれぬ。
 が、かれにとって昇進した者は変わらず仲間なのだろうか? 否。羨望と嫉妬の対象である。うわべは勿論、仲間であることを装うだろうけれど。かれがそれを発憤材料にして自分も、いま以上にがんばって晴れて昇進、管理者側に立てばそれで満足だろうし、良き影響が生まれるかもしれぬ。と同時に、嫉妬に狂う可能性だって否定はできない。
 いまここでは、職場の同僚、自分よりあとに出世してきた者がいちばんの敵となり得る、とだけ指摘しておく。嫉妬と野心は、時により尋常でない事態を引き起こすからだ。
 わたくしはかつて、それを目撃した。巻きこまれて苦しんだ。──自戒をこめて、今日これを書く。◆

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