第1854日目 〈マタイによる福音書第8章:〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉、〈百人隊長の僕をいやす〉with本日のBGM/メンデルスゾーン《スコットランド》交響曲〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第8章です。

 マタ8:1-4〈重い皮膚病を患っている人をいやす〉
 説教を済ませて山を降りてきたイエスに、1人の重い皮膚病を患った人が近寄ってきた。その人がイエスにひれ伏して曰く、主よ、御心ならば清め給え、と。
 イエスは答えた。よろしい、清くなれ。そうして相手の体に触れた。すると、病は清められた。その人に対してイエスは、このことは誰にも話さぬように、といった。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセの定めた献げ物をささげなさい。そうやってのみ人々に自分が清められたことを証明するのです。

 マタ8:5-13〈百人隊長の僕をいやす〉
 カファルナウムの町へ戻ったイエスに、1人のローマ軍の百人隊長が近寄ってきた。その人がイエスに嘆願して曰く、主よ、中風に苦しむわが僕を癒やし給え、と。イエスは答えた。よろしい、わたしは行こう。
 が、百人隊長はそれを拒んだ。曰く、わたしはあなたを家に迎え入れられるような者ではありません、ただ一言、僕の中風が治れ、とだけいうてください、と。「わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(マタ8:9)
 イエスはこの百人隊長の言葉に感銘し、自分へ付き従う人々に振り返ってかれを讃えた、──
 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。/
言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。/だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」(マタ8:10-12)
 そうしてイエスは百人隊長に、あなたの望むことを信じて家に帰りなさい、といった。百人隊長が家に帰ると、かの僕の中風はすっかり治っていた。

 マタ8:14-17〈多くの病人をいやす〉
 イエスはペトロことシモンの家へ行き、熱にうなされるかれの姑に触れて、治した。
 夕方、人々が多くの悪霊に取り憑かれた者を連れてきた。去れ、とイエスがいうと、悪霊は出てゆき、病人は皆癒やされた。
 これはかつて預言者イザヤを通して語られたことの実現である(イザ53:4)。

 マタ8:18-22〈弟子の覚悟〉
 イエスは自分に付き従う大勢の人たちに、ガリラヤ湖の向こう側を指差して、あちらへ渡れ、といった。群衆のなかから1人の律法学者が歩み出て、イエスに曰く、どこへでも付き従います、と。それに答えてイエスの曰く、──
 「「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(マタ8:20)
 また、弟子の1人が曰く、その前にまず亡き父の埋葬を済まさせてください、と。それに答えてイエスの曰く、──
 「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」(マタ8:22)

 マタ8:23-27〈嵐を静める〉
 ガリラヤ湖の向こう岸へ渡る船が出ると、激しい嵐が湧き起こり湖上の波は大いに荒れた。弟子たちは怯え、眠っているイエスを起こしに行った。
 ──なぜそんなに怖がるのか、信仰の薄き者たちよ。イエスは弟子たちにそういうと、嵐と湖を一喝した。するとたちまち嵐はやみ、湖は凪いだ。
 その様子を見ていた弟子たちは顔を見合わせて囁き交わした。自然をもその言葉で自在とするこの方は果たして何者だろう。

 マタ8:28-34〈悪霊に取りつかれたガダラの人をいやす〉
 イエスはガリラヤ湖を渡るとガダラ人の土地に入った。そこへ墓場から、悪霊に取り憑かれた2人の男が来た。かれらはとても狂暴で、かれらのいるところは恐れられて誰も通ろうとしなかったのである。
 かれらはイエスを見て、神の子よ、いまはまだその時ではない、われらを苦しめてくれるな、といった。もしわれらをこの者たちの体から追い出すなら、あすこにいる豚どものなかへ入れさせてくれ。
 イエスはそうした。すると悪霊に取り憑かれた豚の群れは雪崩を打ったように崖を下ってゆき、そのまま湖に飛びこんで、いずれも溺死した。
 その様子を見ていた豚飼いたちは逃げ出して、町の人々にいま目撃した出来事について、一部始終を話して聞かせた。人々は一目イエスを見ようと、かれのいるところへ行った。が、かれらはイエスを見るや、この土地から出て行ってくれ、と口々に迫った。

 本章を読んでいて、旧約聖書の神がまず言葉ありきで行動したのと同様、新約聖書では主になぞらえられるイエスもやはり言葉ありきで行動する存在なのだ、と改めて感じたことである。もっとも、旧約聖書の神が行うのは祝福と裁きであって、イエスが行うのは専ら奇跡、治癒である、という相違点はあるけれど。そんな側面もあって「神の子」と呼ばれたりもするのか。
 肉親の埋葬をさせなかったイエスには驚き、惑い、憤ってしまう。しかし、これこそがかれの行動理念であることを知れば、この発言にも頷けるところはあるのだ。明後日読むことになる第10章に、こうした文言がある。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。/また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」(マタ10:37-38)
 まあ、世俗の義理や人間関係よりも自分の教えを優先せよ、という意味合いになるが、「滅私奉公」という語がいちばん相応しかろうか。でも、これまでにも人の義よりも神の義の方が優る旨の言葉は読んできたから、ああそういうこともあり得ような、と思うのだ。正直、個人的にはいったいこの発言、人道的な視点から捉えた場合どうなのか、と疑問ではあるのだが。
 なお、マタ8:12にある「御国の子ら」とはやがてやって来る異邦人を指す。その者たちは主により選ばれた人たちが連なることのできる宴会を、「外の暗闇」から見て口惜しがり、「泣きわめいて歯ぎしりする」というのである。

 本日の旧約聖書はマタ8:17とイザ53:4。
 「彼はわたしたちの患いを負い、/わたしたちの病を担った。」(マタ8:17)
 これの典拠は、
 「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに」(イザ53:4)



 本日のBGMは、ペーター・マークの指揮でメンデルスゾーンの交響曲第3番《スコットランド》。オーケストラは東京都交響楽団である(フォンテック)。
 ロンドン響(デッカ)やベルン響(カールトン)、マドリッド響(アーツ)を相手にした演奏/録音やはり名演で自分は好きなのだけれど、耳にいちばんしっくりと馴染んで陶酔させてくれるのは、むしろこちらフォンテック盤なのだよなぁ。1993年4月のライヴ。
 ──今後もときどき、このように<本日のBGM>に触れてゆくつもりであります。◆

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