第1861日目 〈マタイによる福音書第15章:〈昔の人の言い伝え〉、〈カナンの女の信仰〉他with地元へ帰る日。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第15章です。

 マタ15:1-20〈昔の人の言い伝え〉
 イエスの許にエルサレムからファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、かれに訊ねた。あなたの弟子たちはどうして食事の前に手を洗わないのか、どうして昔からの言い伝えを破るのか。これにイエスが答えて曰く、──
 どうしてあなた方は自分たちの教えや言い伝えのために神の掟を破るのか。十戒には、父母を敬え、とある。律法には、父母を呪う者は死刑に処される、とある。なのにどうしてあなた方は、父母に向かって、あなたたちへ差し上げるものは神への供物にする、などというのか。あなた方は、自分たちの教えのために神の掟を無視している。実はこのことは既に預言者イザヤを通して語られていたことの実現であるのだ。
 それからイエスは自分に付き従う群衆に向かって、いった。聞いて悟れ、口に入るものは人を汚さず、口から出るものは人を汚すのだ、と。
 弟子たちが近附いてきて、イエスにいった。あなたの言葉を聞いてファリサイ派の人々がつまずいたのをご存知ですか。イエスは答えた、そのままにしておきなさい、と。かれらは盲人の道案内に等しい。盲人が盲人を導いても穴に落ちるだけだ。
 ペトロがイエスに、さっきファリサイ派とサドカイ派の人々にいっていたたとえの意味を教えてください、と頼んだ。イエスは嘆息して頭を振り、ペトロたちにいった。曰く、あなた方もまだ悟らないのか、と。続けて、──
 「口から出る来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行為、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るのである。これが人を汚す。」(マタ15:18-20)

 マタ15:21-28〈カナンの女の信仰〉
 或るとき、イエスはガリラヤ湖北西の大海沿岸の町、ティルスとシドンの方へ行った。途中、この地方に生まれたカナン人の女がイエスに縋って、いった。主よダビデの子よ、わが娘を憐れみ給え、わが娘には悪霊が取り憑いておりますゆえ。しかし、イエスはこのカナン女になにも答えなかった。
 叫びながら付いてくるカナン女にほとほと参って弟子たちがイエスに、どうかこの女を追い払ってください、と頼んだ。が、イエスはこう答えるばかりだった、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタ15:24)と。
 女は、今度はイエスの前にひれ伏して、娘を助けてくれるよう懇願した。イエスはいった。子供のパンを取って犬にやるな。女は、ごもっともです、しかし犬は主人のテーブルから落ちパン屑は食べるのです、と返した。
 これにイエスは感心して、あなたの信仰は立派だ、といった。帰りなさい、あなたの願い通りになるように。
 果たしてこのカナン人の女が家に帰ると、娘は癒やされていたのだった。

 マタ15:29-31〈大勢の病人をいやす〉
 ティルスとシドンのある地方から戻ってきたイエスは、或る山に登って坐った。そこへ群衆が、数多の病人を連れて押し掛けてきた。イエスは皆の病気を癒やした。

 マタ15:32-39〈四千人に食べ物を与える〉
 同じ場所で。
 イエスは群衆が腹を空かせているのを見かねて、弟子たちを呼び集めた。かれらはもう3日もわたしと一緒にいるが、なにも食べていないから腹を空かせている。この状態で解散させれば途中で倒れてしまう者も出て来ることだろう。
 が、かれらの腹を満たそうにもそこに食糧はなく、近隣のどこからも調達できるアテはなかった。
 そこでイエスは訊ねた。いまパンは何個あるか。7個である、と弟子たちが答えた。それと、魚も少々。イエスはそれらを受け取ると、感謝の祈りを唱えた。そうして7個のパンと少々の魚を裂いて弟子たちに渡し、これをかれらに食べさせなさい、といった。弟子たちはそうした。すると、群衆の腹はすっかり満たされたのだった。その数、女子供を除けば男子4,000人。
 その後、イエスは群衆を解散させ、自分はマガダン地方、即ちガリラヤ湖西岸の町マグダラのある地方へ向かった。

 徐々にイエスとファリサイ派、律法学者の対立が表面化してきていることがわかる。サドカイ派があまりイエスとの諍いに関わりを持たぬように見られるのは、詰まるところ、互いに目の上のタンコブ状態にはなっていない、ということでもあろう。
 律法を重視する一方でローマとの共存を図るという意味で、見ようによっては「生き残るための節操のなさ」が目立つサドカイ派は、イエスの目にファリサイ派程頑迷ではなく、神の掟から離れているとは雖も自分の考えと共通する部分のあることを感じていたのかもしれぬ。
 かつてイエスは弟子たちに、サマリアなどではなくイスラエルの家の失われた羊、即ちユダヤ人のところへ行け、と命じた(マタ10:5-6)。本章に於いてイエスは自分自身もかれらのために遣わされたのだ、と述ぶ。そうしてイエスは本章にて異邦人たるガリラヤ人の女の願いをかなえてその娘を癒やした。
 イエスの目的は、ただユダヤ人のみを救うことに非ず。かれが癒やし、救うのは特定の民族ではなく、同じ信仰を本当に持つ者である。それを高らかに語るのがマタ15:21-28〈カナンの女の信仰〉である。単に構成上の理由というてはミもフタもないけれど、本挿話以後異邦人が信仰表明するところが、新約聖書には散見されるようになる。わたくしは本挿話を読んで、キリスト教が全世界へ伝道、受容されてゆく理由の一端を(今更ながら)知ったように思うのだ。ここには確かに、平等と寛容と希望と愛がある。

 本日の旧約聖書はマタ15:4aと出20:12,申5:16,マタ15:4bと出21:17,マタ15:8-9とイザ29:13。
 「父と母を敬え」(マタ15:4a)
 これの典拠は、
 「あなたの父母を敬え」(出20:12)
 「あなたの父母を敬え」(申5:16)
 補記;出エジプト記」、「申命記」それぞれこのあとに、「あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る」(申)旨文言が続く。

 「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」(マタ15:4b)
 これの典拠は、
 「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」(出21:17)

 「この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。/人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。」(マタ15:8-9)
 これの典拠は、
 「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。/彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(イザ29:13)



 福富町の馴染みのクラブで閉店まで飲んだくれたあと、終電もない帰り道をタクシー1台摑まえることすらままならず、天気予報通り雨が降りやがて霙に変わった空の下をてくてく歩いて、つい先程午前3時18分に帰宅したみくらさんさんかです。皆様、どのような未明の時間をお過ごしでしょうか。
 いまの場所になって6年、その前を含めると約10年も通っている計算になる件のクラブに寄る前は、横浜某所のキリン・シティで黒ビール&いいだこのフリット、達人ビール&本日のタパス、白ワイン&フィッシュ・アンド・チップスをお腹に収めたわけですが、帰り道、殆ど人通りも車の行き交うことも殆どなくなった稀有なる時間帯の国道脇の歩道を歩きながら、みくらさんさんかはふと考えた。
 これまで自分が贔屓にしてきた(?)お店、気が向くと足を向けていたお店というのは、場所がどこであろうと電車やタクシーを使わねば、これまでのような頻度で行くことがない店ばかりであった(あった、とは書いたが、事実上の現在進行形、おそらくは未来進行形でもある)。
 が、時間が時間ゆえにシャッターを下ろして見落としがちになると雖も、わが地元には小料理屋、創作和食の店の、なんと多くあることか。ちょっとした好奇心から国道沿いを外れて裏道に入ってみても、住宅のひしめき合う運河沿いの路地に、これまで存在すら知ることのなかった小さな飲み屋、小さな料理屋がぽつん、ぽつん、と存在している。
 地元と地元の周縁部こそ、呑兵衛の行き着く最終エリアであるのなら、人生の半分を過ぎた年齢を迎えている以上、そろそろ終電の時間やタクシーを摑まえられるかといった心配から解き放たれて、地元の小料理屋や創作和食の店の暖簾を、勇気を出してくぐってみる準備をしておこうかな、という気になってくる。
 これまで通い馴れた店とは訣別しよう、というのではない。ただ、飲むにせよ摘まむにせよ、地元に帰ってそんなことをする場所や時間があってもいいのではないか、というお話。別にiPhoneで「地元に帰ろう」(GMT)を聞いていたが為の発想ではないことを、最後に一筆記しておく。◆

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