第1869日目 〈マタイによる福音書第23章:〈律法学者とファリサイ派の人々を非難する〉&〈エルサレムのために嘆く〉withそれは神なる<王>の御許へ帰還する予告である。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第23章です。

 マタ23:1-36〈律法学者とファリサイ派の人々を非難する〉
 そのあとでイエスは、弟子たちと群衆に向かっていった。曰く、──
 律法学者とファリサイ派の人々はモーセの座に着いている。為、かれらの発言には耳を傾け、行い、守りなさい。が、かれらの言動を真似てはならぬ。有言実行などしないからだ。
 よいか、わたしに付き従う人々よ。あなた方は先生と呼ばれてはならぬ。地上の者を父と呼んではならぬ。教師と呼ばれてもならぬ。あなた方の先生はただ1人だけで、他は皆兄弟である。あなた方にとって父は天の父のみ。あなた方の教師はわたしキリストのみなのだ。
 「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタ23:11-12)
 律法学者とファリサイ派の人々は偽善者だ。かれらは、7つの理由ゆえに不幸である。その7つの理由とは、以下のようなものである、──
 人々の前で天の国の門を閉ざすから。
 改宗者を自分の倍も悪い地獄の子にしてしまうから。
 人々に、神殿の黄金や供え物にかけて誓いをさせるから。
 律法の最も重要な正義、慈悲、誠実を蔑ろにしているから。
 自分の外観を取り繕うばかりで、内側の強欲と放縦を正そうとしないから。
 他者からは正しいように見えながら、内面は偽善と不法に満ちているから。
 正しい人の記念碑を築いたり、預言者の墓を建てたりしているから。かれらは、自身の発言によってこの人たちを殺したのが自分たちの先祖であることを証言した。どうして、律法学者とファリサイ派の人々が地獄の業火から免れられようか。
 「だから、わたしは預言者、知者、学者をあなたたちに遣わすが、あなたたちはその中のある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと追い回して迫害する。
 こうして、正しい人アベルの血から、あなたたちが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血はすべて、あなたたちにふりかかってくる。
 はっきり言っておく。これらのことの結果はすべて、今の時代の者たちにふりかかってくる。」(マタ23:34-36)
──と、イエスは弟子たちと群衆にいった。

 マタ23:37-39〈エルサレムのために嘆く〉
 エルサレムよ、自分のために遣わされた預言者や正しい人々を死に追いやってきた町よ。わたしは何度もお前の子らを集めようとしたけれど、けっきょくお前がわたしの思いに応じることはなかった。やがては町も神殿も見棄てられ、朽ちて荒れ果てるだろう。
 「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うときまで、今から後、決してわたしを見ることがない。」(マタ23:39)

 これまでも折に触れて、ちくり、ちくり、とイエスはファリサイ派や律法学者を非難してきた。しかしながら大抵の場合、それは喩え話を用いてされてきたのに対し、本章ではより直接的、攻撃的に非難の言葉を浴びせるようになっている。それはもはや確信犯的行いだ。まあ、それが陰口の類に(結果として)なってしまっているのは否定できない。
 5番目の理由と6番目の理由については、内も外も清らかで正しくあれかし、という意味であることがわかれば把握もし易かろうが、でも残念ながら現在も過去も、地球上のどんな地域にも、それを実現、体現できている人は仲々いないのである。斯く取り繕ってメッキが剝がれぬよう腐心し、人格者を演じている人は、それこそ掃いて捨てる程に存在するけれど。
 引用したマタ23:34は、やがてわれらも読書や勉強を通して目撃する、ゴルゴダの丘に於けるイエス磔刑、弟子(使徒)たち、信徒たちの迫害を予告しているようにしか読めないのだが、さて、かれらはこの私見についてどのようにいうだろう。
 ──以下、註。
 アベル;アダムと妻エバの次男。羊を飼う者。兄カインと一緒に主へ献げ物をしたが、自分の献げ物を神が選んだことに怒った兄により殺害される。聖書初の殺人事件の被害者はアベルであった。創4:5,10。
 ゼカルヤ;祭司ヨヤダの子。南王国ユダの人。父亡き後、ヨアシュ王共々先祖の神、主の神殿を捨てて異教の神、偶像に仕えた民を非難したことで殺害された。マタ23:35にて父をバラキアとするのは、小預言者ゼカリヤの父ベレクヤと混同されたためか。代下24:20-22。

 本日の旧約聖書はマタ23:39と詩118:26。
 「『主の名によって来られる方に、祝福があるように』」(マタ23:39)
 これの典拠は、
 「祝福あれ、主の御名によって来る人に。わたしたちは主の家からあなたたちを祝福する。」(詩118:26)



 いやぁ実はスティーヴン・キングの小説は読み残しが幾つもあってねぇ、とは以前より申しあげているところだけれど、今日またそこに1作が新たに加わってしまったのである。著者自ら最愛の作品と呼ぶ『リーシーの物語』上下(文春文庫)がそれだ。
 むろん、この作品はハードカバーで持っているけれど、それこそ読み残しが生まれるようになった最初の1作ではなかったか。まだキングを心ゆくまで、なんの後ろ髪引かれる思いもなく読み耽るようになるにはかのロシアの文豪の未読長編を2作、片附けてしまわねばならぬ。が、それが済んだら今度こそ、わたくしはわが神キングの長短編とじっくり対峙してゆくのだ。
 復帰劇の開幕を告げるべき作品は、ドラマの日本初放送に伴って先に文庫化された『アンダー・ザー・ドーム』ではなく、『悪霊の島』や『セル』でもない。況んや『11/22/63』でも中編集でもない。この『リーシーの物語』でなくてはならぬ。
 半日勤務の帰り、職場近くの書店で見附けるや即座に購入したこの作品で、わたくしは神の御許へ帰還を果たすのだ。待っていろ。
 なお文藝春秋からはこのあと、『シャイニング』の続編『ドクター・スリープ』、『リヴァイヴァル』と3部作の第1作である『ミスター・メルセデス』、またペーパーバック・オリジナルで刊行されたミステリー小説『ジョイランド』の翻訳出版が待機している由。具体的な刊行時期は不明だが、いまは静かに出版の報を待とう。そういえば、新潮文庫から刊行が予告されている《ダーク・タワー》シリーズの番外編はいつ出るのだろう?◆

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