第1898日目 〈マルコによる福音書第12章:〈「ぶどう園と農夫」のたとえ〉、〈皇帝への税金〉他with鳥羽・伊勢旅行が喚起したむかしの<夢>〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第12章です。

 マコ12:1−12〈「ぶどう園と農夫」のたとえ〉
 引き続いてイエスは神殿の境内にて祭司長たちに話した。曰く、──
 或る人がぶどう園を作り、造作を調えた後、農夫たちに貸して自分は旅に出た。収穫の季節となり、その人は収穫を受け取ろうと使いの者を出した。使いは3人、出された。が農夫たちは3人に暴力で報いた。1人は袋叩きに、1人は殴って侮辱し、もう1人は殺した。そのあと何人となく使いの者が出されたが、いずれも暴力の犠牲となった。最後に農場主の息子が送りこまれた。しかし農夫たちは、跡取りであるがゆえにかれをも殺したのだった。
 ──この喩え話が自分たちへの中傷である、と気附いた祭司長らはイエスを捕らえようとしたが、民衆の反発が怖くてできなかった。そこでかれらはイエスをその場に残して去った。

 マコ12:13−17〈皇帝への税金〉
 イエスに反感を持つ人々が相談して、ファリサイ派とヘロデ派(党)のなかから数人を派遣してイエスを試した。かれらはいって、イエスに問うた。皇帝に税金を納めるのは律法に適っているか否か。また、皇帝に税金を納めるのは是か非か。
 イエスは相手の下心を見抜き、皇帝の肖像と銘が刻まれたデナリオン硬貨を持って来させて、いった、──
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(マコ12:17)
 人々はイエスのこの言葉に驚いた。

 マコ12:18−27〈復活についての問答〉
 サドカイ派の人々は「復活」を否定する立場を取る。そのサドカイ派の人々がイエスに、復活について訊ねた。7人の兄弟に、夫が死ぬたび嫁いだ女がいたとする。皆死んで復活の時が来てかれらがよみがえった際、この女はいったい誰の妻になるのだろう。彼女は長男から七男まで、全員に嫁いだのだ。
 あなた方は思い違いをしている。そうイエスはいった。復活したらばもはや娶ることも嫁ぐこともなく、皆天使のようになるのだ。神は生きている者の神であり、死者のための神ではない。

 マコ12:28−34〈最も重要な掟〉
 これまで議論を聞いていた1人の律法学者がイエスに、あらゆる掟のなかでどれが第一でしょう、と訊いた。
 イエスは答えた、──
 第一の掟とはこれである;「イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マコ12:29−30 ex/申6:4−5)
 第二の掟はこれである;「隣人を自分のように愛しなさい。」(マコ12:31 ex/レビ19:18)
 この2つに優る掟はない。
──と。
 先生、仰る通りです、と、その律法学者はいった。神は唯一であり、他に主はない。これは本当のことです。心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分の如く愛せ、とは、どんな献げ物やいけにえよりも立派です。
 「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、『あなたは、神の国から遠くない』と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」(マコ12:34)

 マコ12:35−37〈ダビデの子についての問答〉
 どうして律法学者たちは、メシアはダビデの子だ、というのか。ダビデ自身が聖霊を承けて詩篇で詠っているではないか。ダビデ自身、メシアを主と呼んでいる。なのにどうしてメシアがダビデの子であり得よう。

 マコ12:38−40〈律法学者を非難する〉
 人々よ、律法学者に気を付けなさい。かれらの行動はすべて演技、体裁を取り繕うためのパフォーマンスである。

 マコ12:41−44〈やもめの献金〉
 イエスは人々が神殿の賽銭箱にお金を入れる様子を見ていた。金持ちはたくさんのお金を入れた。そのなかに、1人のやもめがいて、レプトン銅貨2枚、即ち1クァドランスを賽銭箱に入れた。
 それを見たイエスは弟子たちを呼び集めて、やもめを讃えた。この人を見よ、──
 「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マコ12:43−44)

 この時代、労働した1日分の賃金は1デナリオンであった。新約聖書では様々な貨幣単位が現れるが、デナリオンはその基準ともなっている。マコ12:42の「レプトン」はギリシア通過の最小単位で1デナリオンの1/128,レプトン銅貨2枚と等価である「1クァドランス」はローマ通過で1デナリオンの1/64。
 ──1日分の賃金の1/64が生活費であるとは、今日の貨幣基準では幾らぐらいになるだろう。下手な換算をしてみよう。時給1,000円で8時間労働の場合、日給は当然8,000円となる。それを64で割ると……125円! これが単純に給与を64で割ってその金額になる、というのなら、特に問題はあるまい。金融機関の口座や或いはお財布のなかに、それ以外のお金はあろうはずだから。
 が、当時のユダヤ人社会に、雇用主と労働者の間に雇用契約が取り交わされて仕事の繁忙期・閑散期の別なく雇用が続けられて、決まった日時に決まった賃金が支払われる、という今日的意味合いでの<仕事>があったとは思えない。勿論、ここで俎上に上すのは日雇い労働者であり、家業を営んでいたり、神殿へ奉職していたり、家僕として使われているなど継続される生業を持つ者は考慮しない。
 となれば、今日は懐を暖めてくれる1デナリオンの1/64である1クァドランス、即ち2枚のレプトン銅貨が明日も得られるとは限らぬ。まさにその日暮らし、生活費のすべて、全財産。それを賽銭箱に入れたとあっては、やもめの行為、その人物をイエスが賞讃するのも道理である(意地悪な見方をすれば、それが賃金を貯めたなかから捻出したものであり、やもめのところには他に貯金があった可能性だって否定はできないけれど。呵々)。
 これを踏まえて考えると、マタ20:1−16〈「ぶどう園の労働者」のたとえ〉で1日の労働量が違っても等しく賃金が支払われるとうのは、やはり凄い、素晴らしい話と思わざるを得ない。こうしたぶどう園での労働と賃金、やもめの献金といった挿話が繰り返し語られてきたことで、欧米に於ける社会福祉保障制度の礎が築かれたのかなぁ、と感銘を(1人勝手に)新たにしてみる。



  いまはしがない雑文書きだが、これでも20代の頃は物書きとして大志があった。
 村上春樹『辺境・近境』(新潮社)を何気なく手にして、この人の文章や人柄、思考回路に惚れこんだ。バックパッカーの知人の影響から雑誌『GEO』を読み、自発的に『NATIONAL GEOGRAPHIC』を講読して、自分の志が固まった。──世界のあちこちを旅して取材して、旅行記やルポを書いて、食っていきたい。そんな志、というか希望。
 自分は紀行作家になるんだ──そう決めた僕のなかでは村上春樹=紀行作家であったし、『NATIONAL GEOGRAPHIC』に自分の署名入り原稿を寄稿することは生涯の夢となった。もともと歴史に興味があって歴史上の出来事の舞台となった地、あるいは好きな文学に所縁ある場所を訪ね歩くことを(安い給料をやり繰りして)始めていた時期である。物書きとして自分が進むべき道を見付けたときの得も言われぬ感動……<歌おう、感電するほどの喜びを!>
 さて、翻ってあれから20年が経とうとしている現在。いったい自分は「ここで」「なにを」しているんだろう。小説家としての活動も、翻訳家としての活動もいまは絶え、舞い込む小文書きに身をやつすばかりじゃ。毎日時間に追われて書いているのは、お金にならぬ自己満足のブログ原稿ぐらいだ。
 今回鳥羽・伊勢旅行して古人の紀行文の端々を思い出し、松尾芭蕉や泉鏡花の紀行文を拾い読みしていて、ふと現実に帰ってみて、現在の自分が20年前に思い描いた自分の姿と大きく乖離していることに気付かされ、茫然自失の状態である。
 会社員をやりながら歴史や文学に立脚した紀行文を書くことは、難しいのかなぁ……。◆

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