第1901日目 〈マルコによる福音書第14章2/2:〈裏切られ、逮捕される〉、〈ペトロ、イエスを知らないと言う〉他〉 [マルコによる福音書]

 マルコによる福音書第14章2/2です。

 マコ14:43−50〈裏切られ、逮捕される〉
 「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」(マコ14:42)とイエスがいって示した先から、裏切り者イスカリオテのユダが来た。その後ろには祭司長や律法学者、武器を携えた人々が控えている。
 ユダは打ち合わせた通り、イエスに近附き接吻し、この者が逮捕すべき人物だ、と人々に知らせた。それを見て、ユダの後ろにいた人がイエスを捕らえようと歩み出た。と、その場に居合わせたイエスを慕う者の1人が剣を抜いて斬りかかり、相手の片耳を切り落とした。──騒動を制するように、イエスはいった。──
 わたしは毎日神殿の境内にいたのに、あなた方は今日のように捕らえようとしなかった。が、実はそれは聖書の言葉、預言者イザヤの言葉が実現するようにである。
 ……ペトロたち11人の弟子たちはいつの間にやら四散、いずこかへと逃げ去っていた。

 マコ14:51−52〈一人の若者、逃げる〉
 斯くしてイエスはユダの裏切りによって捕縛され、連行されてゆく。その集団の後ろに従って歩く、素肌に亜麻布をまとった若者がいた。かれはイエス捕縛と連行をつぶさに観察していた。が、やがてかれは自分が捕らえられようとすると、亜麻布を脱ぎ捨てて、裸のままスタコラサッサと逃げていった。

 マコ14:53−64〈最高法院で裁判を受ける〉
 人々はまずイエスを大祭司カイアファの許へ連れて行った。そのときペトロはカイアファの屋敷の中庭にいて、下っ端役人たちと一緒になって火にあたっていた。
 祭司長たちや律法学者、その他の人々は、なんとかしてイエスを罪人に仕立てあげたく思い、様々な偽りの証言者を用意して、大祭司の前でイエスの罪を告げさせた。が、いずれの証言にも矛盾が生じていたので、どれも決定的な告発にはなり得なかった。
 カイアファはイエスに、これだけ多くの者がお前に不利な証言をしているのに、どうしてお前は黙ったままでいるのか、と訊ねた。が、イエスは黙して答えず。重ねてカイアファが問うに、お前は誉むべき方の子、メシア(キリスト)なのか、と。イエスは口を開いて、答えた、──
 「そうです。/あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に囲まれて来るのを見る。」(マコ14:62)
 これを聞いたカイアファは衣を引き裂きながら、もはや証人は必要ない、諸君はいまこの男の口から冒瀆の言葉を聞いた! と叫んだ。民は口々に、然り、然り、といい、イエスを罵った。
 ──イエス処刑の決議はただちに為されたのである。

 マコ14:66−72〈ペトロ、イエスを知らないと言う〉
 さて、前述のようにペトロは大祭司カイアファの屋敷の中庭にいて、裁判の様子を見守っていた。すると、かれを見掛けたこの屋敷の女中がペトロを指して、あなたはナザレのイエスと一緒にいた人だ、といった。なんのことか、誰のことをいっているのやら、わたしにはさっぱりわからぬ。そうペトロは返事して、出口の方へ歩いて行った。そのとき、鶏が鳴いた。
 この女中はなおもペトロを指して、皆さん、この男はあのナザレ人の仲間です、と声高にいった。ペトロはこの言葉をも否定した。
 いまや中庭にいる人々全員の目がペトロに注がれている。その人たちがやはりペトロを指して、いいや、お前はたしかにあのナザレのイエスの仲間で弟子の1人だ、ガリラヤ地方の者だからな、と騒ぎ立てた。ペトロは誓った。わたしはナザレのイエスなど知らない。そのとき、再び鶏が鳴いた。
 ──鶏の鳴くのを2度聞いたペトロのなかに、かつてイエスが自分にいった言葉がよみがえった。鶏が2度鳴くまでに、あなたはわたしを知らない、と3回いうだろう。……ペトロは突然泣き始めた。あらん限りに、泣いた。自分もユダ同様、イエスを裏切ったのだ、と悟り、声を嗄らして、泣いた。

 いよいよイエスの公生涯の幕切れが視界に入って来、そうして十字架上の死に至るカウント・ダウンが始まる。イスカリオテのユダの導きによって、終わりのなかの終わりが始まった。
 イスカリオテのユダといえば古来から<裏切り者>の代名詞のようになっているが、どうしてかれがイエスを売り飛ばす行為に及んだのか、真実は未だ明らかではない。福音書や周辺資料に散らばった小さな証拠を丹念に拾い集めて分析し、解釈を加えるより他ない。その解釈もまだ十人十色、千差万別で、幾通りかの傾向はあるようだが、ユダ自身、或いは近い人物からの発言が出てこない以上、真相は永遠に<藪のなか>にあり続ける。
 一説によれば、ユダは12人の弟子たちのうち、誰よりもイエスの教えに理解を示し、帰依していた、という。一番弟子ではないから仕方ないものの、自分がイエスの教えに最も親近した立場であるならば、それ相応の扱いを受けていいはずだし、またイエスの愛情をもっと受けていいはずではないか。なのに、自分はイエスのお眼鏡にはかなうことなく、却って非道い扱いを受けている。面白くない。愛ゆえの憎しみ;まさしく正真正銘の<アムビヴァレンツ>、<ルサンチマン>。
 また、ユダは弟子団、イエス一派の会計を任されていた、という。なのに、イエスはこちらの心配や諫めをよそに浪費してばかりだ。再た諫めれば陰に陽に詰られ、スケープゴートの如く扱われる。挙げ句の果てには収支をごまかし、浮いたお金を自分の懐に収めて私腹を肥やしている、などとまで中傷され。仲間である兄弟子、弟弟子にもいじめられる。腹立たしい。不快だ。どうやらイエスもその件については疑っているようだ。なおさら面白くない。そんな恨み辛みが積もり積もって<イエス裏切り>という、或る意味で人類の歴史の一大転換点となる事件を引き起こした。勿論、ユダにとっては私憤ゆえの行為であり、まさか自分の行動がその後の歴史を左右するなど想像だにしなかったに違いない。そんなこと、夢にも思わなかったであろう。
 ──いずれにせよ、どうしてイスカリオテのユダがイエスを裏切ってしまったのか、真相は依然として知れぬ。タイムマシンがあったなら、と切望するのは、こんな歴史の闇に埋もれたままな真実を知りたい、と願うときである。……ユダがイエスを裏切ったりしなければ、今日のような混沌とした、いびつな世界は生まれていなかったかもしれないね。
 なお、亜麻布をまとった若者は、本福音書の著者とされるマルコではないか、という。作家というのは自己顕示欲の強い生き物だ。なんらかの形で作品のなかに、自分自身を投影させた登場人物を置く。登場人物に著者自身の名前を与えたりもする。本福音書に於いても、もし件の若者がマルコ自身であったなら、「マルコによる福音書」はその嚆矢といえるだろう。そんなことを冗談交じりに考えるのだ。なによりもこの一節、唐突で浮きまくっており、その描写には思わず、くすり、とさせられる。

 本日の旧約聖書は、マコ14:49とイザ53、マコ14:62aと詩110:1、マコ14:62bとダニ7:13。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。