第2009日目 〈ヨハネによる福音書第5章:〈ベトザタの池で病人をいやす〉、〈御子の権威〉&〈イエスについての証し〉with原稿のストックについて理想を述べてみる。〉 [ヨハネによる福音書]
ヨハネによる福音書第5章です。
ヨハ5:1-18〈ベトザタの池で病人をいやす〉
或る年の過越祭にイエスはエルサレムに上った。羊の門の近くにベトザタと呼ばれる池がある。そこには5つの回廊があり、病気を患う人や体に障りのある人たちが大勢横たわっていた。
イエスはそこを歩いていると、38年も病苦に悩まされる人と会った。その人は、池の水が動いてもわたしを池に入れてくれる人はいません、他の人が先に池のなかに入ってしまうのです、とイエスに訴えた。ベトザタの池にはときどき主の使いが降りてきて、池の水を動かし、そのとき真っ先に池に入った者は如何なる病気にかかっていようとも必ず癒やされるのだった。
治りたいか。イエスは訊いた。起きて床を担ぎ歩きなさい。
すると病人はたちまち良くなり、起きて床を担ぎ歩き出した。
この間にイエスは群衆に紛れてかれの前から姿を消した。
──これは安息日の出来事であった。
38年も病気で苦しんでいた人が元気に歩いているのを見て、ユダヤ人たちはかれを詰問した。立法で禁止されている安息日にお前を癒やしたのは誰なのか。が、かつての病人は答えられなかった。
その後、イエスとその人が神殿の境内で偶会した。イエスはかれにいった。もう罪を犯すな、次はもっと悪いことが起こるかもしれない。……かれは自分を癒やした人を知り、皆に触れて回った。
そうしてユダヤ人によるイエス迫害が始まった。
ユダヤ人たちはイエスが安息日にこのようなことを行うのを責めた。が、イエスは答えて曰く、わが父はこの瞬間も働いている、為にわたしも働くのだ、と。
これを聞いたユダヤ人たちは驚き、憤り、イエスの命を狙うようになった。イエスが安息日を守らぬばかりか、神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者としたからである。
ヨハ5:19-30〈御子の権威〉
イエスは自分に敵意と殺意を抱くかれらユダヤ人にいった、──
父の行いを見ずして子はなにもできない。子は父の行いを手本とし、自らもそれを行う。というのも、父は子を愛し、自分のすることをすべて子に見せるからである。
「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」(ヨハ5:20-21)
わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を得る。また裁かれることなく死から命へ移る。
「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハ5:25-30)
ヨハ5:31-47〈イエスについての証し〉
(イエスはユダヤ人たちに続けてこういった、──)
わたしについて証しするのはわたしではない。他にいる。その方がわたしについて証しすることは真実である。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」(ヨハ5:36-37)
あなた方は永遠の命について聖書ばかり研究しているが、そこに答えはない。聖書はわたしについて証しする物だ。なのにあなた方は永遠の命を得るためにわたしの許へ来ようとはしない……。
あなた方のなかに神への愛がないことをわたしは知っている。誰彼からの誉れは受けるのに神の誉れは受けようとしない者に、どうして唯一の神を信じ、愛することができようか。
あなた方を訴えるのはわたしではなく、モーセだ。モーセはわたしについて書いている。モーセを信じるならば、わたしをも信じるはずではないか。モーセが書いたことを信じない者に、どうしてわたしの語ることが信じられるというのか──。
「ヨハネによる福音書」もいよいよ──早くも?──奥の院へ入ってきた様子である。
イエスについての証しというのは変奏されて既に共観福音書でも述べられていた。本挿話については引用したヨハ5:36-37をしっかりと読んでいればじゅうぶんであろう。
第5章の要となるのは、なんというても〈御子の権威〉だ。己の力不足を感じて引用が過半を占めてしまったが、ここにイエスの思想、教えの中心が完結に、明瞭に、十全に、意を尽くして表現されている、と考えてよい。
ヨハ5:30「」とはなんとも力強く、信念に満ちた台詞ではないか。もしかするとこれは4福音書を通してイエスの名台詞ベスト5に入るかもしれない。
本日の旧約聖書はヨハ5:29とダニ12:2,ヨハ5:46と申18:18-19。
ノートに書き溜めておく原稿は1週間分、Macに入力済みで投稿を待つのみの原稿は5日分程度のストックがないと厳しくなってきたと思うことである。理想でしかないのが現状だけれども、それだけの手持ちがあれば有事も乗り切れるのだろうが……いざ取り掛かろうとすると難儀であるのが先に立つ。こうした状態ではヒルティの言葉も霞んでしまう。まずは取り掛かれ。が、持続されねば意味はない。Good Grief.◆
ヨハ5:1-18〈ベトザタの池で病人をいやす〉
或る年の過越祭にイエスはエルサレムに上った。羊の門の近くにベトザタと呼ばれる池がある。そこには5つの回廊があり、病気を患う人や体に障りのある人たちが大勢横たわっていた。
イエスはそこを歩いていると、38年も病苦に悩まされる人と会った。その人は、池の水が動いてもわたしを池に入れてくれる人はいません、他の人が先に池のなかに入ってしまうのです、とイエスに訴えた。ベトザタの池にはときどき主の使いが降りてきて、池の水を動かし、そのとき真っ先に池に入った者は如何なる病気にかかっていようとも必ず癒やされるのだった。
治りたいか。イエスは訊いた。起きて床を担ぎ歩きなさい。
すると病人はたちまち良くなり、起きて床を担ぎ歩き出した。
この間にイエスは群衆に紛れてかれの前から姿を消した。
──これは安息日の出来事であった。
38年も病気で苦しんでいた人が元気に歩いているのを見て、ユダヤ人たちはかれを詰問した。立法で禁止されている安息日にお前を癒やしたのは誰なのか。が、かつての病人は答えられなかった。
その後、イエスとその人が神殿の境内で偶会した。イエスはかれにいった。もう罪を犯すな、次はもっと悪いことが起こるかもしれない。……かれは自分を癒やした人を知り、皆に触れて回った。
そうしてユダヤ人によるイエス迫害が始まった。
ユダヤ人たちはイエスが安息日にこのようなことを行うのを責めた。が、イエスは答えて曰く、わが父はこの瞬間も働いている、為にわたしも働くのだ、と。
これを聞いたユダヤ人たちは驚き、憤り、イエスの命を狙うようになった。イエスが安息日を守らぬばかりか、神を自分の父と呼び、自分を神と等しい者としたからである。
ヨハ5:19-30〈御子の権威〉
イエスは自分に敵意と殺意を抱くかれらユダヤ人にいった、──
父の行いを見ずして子はなにもできない。子は父の行いを手本とし、自らもそれを行う。というのも、父は子を愛し、自分のすることをすべて子に見せるからである。
「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」(ヨハ5:20-21)
わたしの言葉を聞いてわたしを遣わした方を信じる者は永遠の命を得る。また裁かれることなく死から命へ移る。
「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」(ヨハ5:25-30)
ヨハ5:31-47〈イエスについての証し〉
(イエスはユダヤ人たちに続けてこういった、──)
わたしについて証しするのはわたしではない。他にいる。その方がわたしについて証しすることは真実である。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。」(ヨハ5:36-37)
あなた方は永遠の命について聖書ばかり研究しているが、そこに答えはない。聖書はわたしについて証しする物だ。なのにあなた方は永遠の命を得るためにわたしの許へ来ようとはしない……。
あなた方のなかに神への愛がないことをわたしは知っている。誰彼からの誉れは受けるのに神の誉れは受けようとしない者に、どうして唯一の神を信じ、愛することができようか。
あなた方を訴えるのはわたしではなく、モーセだ。モーセはわたしについて書いている。モーセを信じるならば、わたしをも信じるはずではないか。モーセが書いたことを信じない者に、どうしてわたしの語ることが信じられるというのか──。
「ヨハネによる福音書」もいよいよ──早くも?──奥の院へ入ってきた様子である。
イエスについての証しというのは変奏されて既に共観福音書でも述べられていた。本挿話については引用したヨハ5:36-37をしっかりと読んでいればじゅうぶんであろう。
第5章の要となるのは、なんというても〈御子の権威〉だ。己の力不足を感じて引用が過半を占めてしまったが、ここにイエスの思想、教えの中心が完結に、明瞭に、十全に、意を尽くして表現されている、と考えてよい。
ヨハ5:30「」とはなんとも力強く、信念に満ちた台詞ではないか。もしかするとこれは4福音書を通してイエスの名台詞ベスト5に入るかもしれない。
本日の旧約聖書はヨハ5:29とダニ12:2,ヨハ5:46と申18:18-19。
ノートに書き溜めておく原稿は1週間分、Macに入力済みで投稿を待つのみの原稿は5日分程度のストックがないと厳しくなってきたと思うことである。理想でしかないのが現状だけれども、それだけの手持ちがあれば有事も乗り切れるのだろうが……いざ取り掛かろうとすると難儀であるのが先に立つ。こうした状態ではヒルティの言葉も霞んでしまう。まずは取り掛かれ。が、持続されねば意味はない。Good Grief.◆