第2034日目 〈シモン・ペトロとパウロの殉教〉 [日々の思い・独り言]

 ローマ皇帝ネロの名前が新約聖書に出ることはありませんが、14あるパウロ書簡の殆どはネロが皇位に在った時期に書かれたといわれています。その在位期間は54年から68年の14年間に及び、自死によって幕を閉じました。享年31。「ヨハネの黙示録」第13章第18節の「人間を表す数字=666」は皇帝ネロを指すといわれている。
 ネロの在位のうち、特に最初の5年を指して<ローマ帝国最良の5年間>と呼びます。のちには<暴君>として記憶されるネロですが、5年と雖も善政を敷くことができたのは、かれが理想に燃えた若き君主であり、自己の思うところを信じて政務に臨んだ行動力と信念にあったといえますが、と同時に家庭教師でストア派哲学者であるセネカや、ローマ軍近衛長官であったブッルスといった逸材を側近に持てたことの幸福でもあった、と申せましょう。
 「使徒言行録」では描かれないけれど、使徒ペトロとパウロ両名の殉教はネロの善政が終わり、悪政に転じた時代の出来事だったのです。巷間知られるかれらの殉教の様子は以下のようなものであった、と伝えられます。即ち、──
 12使徒の筆頭格で初代ローマ法王とされるシモン・ペトロは逆さ十字架に磔となって殉教した、と昔からいわれてきました。師イエスと同じ処刑方法では畏れ多いから逆さ十字架に磔となることを望んだのです。かれはネロによるキリスト者迫害が始まった頃、ローマにいましたが、筆頭使徒の逮捕を危ぶんだ弟子たちの導きによって一度は帝都を脱出します。が、ローマを発って間もなく、道の向こうから歩いてくるイエスに出会ったのです。ペトロはイエスに訊ねました。主よ、どちらへ行かれるのですか(クウォ・ヴァディス・ドミネ?)。イエスが答えて曰く、再び磔刑となるためにローマへ行くところだ、と。これを聞いたペトロはすぐに思い直して踵を返し、帝都へ舞い戻ります。ローマ入りしたペトロは軍兵にすぐに発見され、逮捕後に逆さ十字架へ掛けられて殉教したのでありました。これはヨハ18にてイエスがペトロの最期について予告していたのを彷彿とさせる死に方です。
 もう一人。パウロは斬首刑であった、と伝えられます。というのも、ネロの友人が窓枠に腰掛けてパウロの説教を聞いていたとき、不幸にしてこの友人は窓から落ちて、死んだ。それをパウロが生き返らせた。このことを聞いたネロ帝はキリスト者を恐れ、このような力をパウロに与えたイエスを恐れ、命じて斬首刑に処した由。また一方では、ペトロがネロ寵愛の魔術師シモンを奇跡によって倒したことで、その場に一緒にいたパウロまでが逮捕され、異教徒であるペトロは前述のように逆さ十字架に掛けられ、ローマ市民であったパウロは斬首刑に処された、ともいいます。
 ペトロとパウロの殉教は64年頃とするのが一般的なようであります。
 ──正典・外典がかれらの殉教について手掛かりを伝えぬ以上、これらは比較的よく知られたかれらの死の場面を紹介したものでしかありません。わたくしも二次資料、三次資料でしかペトロとパウロの殉教について書けないのが残念なのですけれど、まだ体系立った読書のできていない者ゆえどうかご勘弁願いたく存じます。
 聖書を読むことはオリエント社会、後には地中海世界の歴史を学ぶこと。そこから派生して、種々の伝承に触れてゆくこと。今更ながら読書とは、新しい世界へ窓を開くことであることを実感しているところです。偽りなく申せば、ちかごろセネカやキケロ、エピクテトスの著作がやたらと気になり、また、簡にして要を得たローマ帝国史の本はないかな、と探しているのであります。◆

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