第2046日目 〈使徒言行録第5章:〈アナニアとサフィラ〉、〈使徒たちに対する迫害〉他with「お湿りも、過ぎればわれは不快なり」てふ心を鎮めんとて物す文〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第5章です。

 使5:1-11〈アナニアとサフィラ〉
 が、信者全員が自分の持ち物を売った代金の全額を、使徒たちへ預けていたわけではない。アナニアという男が妻サフィラと相談して、所有していた土地を売って得た代金をごまかして申告、使徒たちへ渡したことがある。
 それを見抜いたペトロはアナニアを詰問して曰く、土地の代金をごまかすとは何事か、あなたはサタンに心を奪われたのか、と。「あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」(使徒5:4)
 これを聞いたアナニアはその場に倒れ、息絶えた。人々は皆、このことを聞いて非常に恐れ、若者たちはアナニアの死体を運んで葬った。
 ──その約3時間後、なにも知らないサフィラが帰ってきた。ペトロは土地の代金のことを彼女に訊ね、事実を確かめると、こう言った。「二人で示し合わせて、主の霊を試すとは、何としたことか。」(使5:9)
 続けてペトロがサフィラの死を予告すると、果たして彼女は倒れて息絶えたのである。青年たちはサフィラの死体を運んで夫のそばに埋めた。
 教会と、これを聞いた人々は皆、非常に恐れた。

 使5:12-16〈使徒たち、多くの奇跡を行う〉
 使徒たちの手により多くの奇跡が民衆に対して行われた。かれらは専らソロモンの回廊にてそれを行った。
 使徒たちの反感を持つ者は当然仲間になろうとしなかったが、たくさんの男女が主を信じ、為に信者の数はますます多くなっていった。民衆は使徒たちを称賛していた。
 使徒たちの通り道には、かれらの癒やしを期待する人々が集まるようになった。体の不自由な人々や汚れた霊に取り憑かれた人たちを運んでくる人もいた。そうした人は、体の不自由な人々や汚れた霊に取り憑かれた人たちの体が、せめて地に落ちる使徒たちの影へ触れるように、と腐心して、かれらを道端に置いたのである。

 使5:17-42〈使徒たちに対する迫害〉
 その後、妬みに駆られた祭司やサドカイ派の人々によって使徒たちは捕らえられたが、その日の夜になると主の天使の導きにより牢を脱出して、明け方の神殿の境内に立って民衆へ福音を宣べ伝えた。
 使徒たちの脱牢と神殿での説教を知った祭司たちは、神殿守衛長とその下役たちを派遣して使徒たちを再び捕らえ、連行させた。「しかし、民衆に石を投げられるをの恐れて、手荒なことはしなかった。」(使5:26)
 連行されてきた使徒たちを尋問したのは、大祭司カイアファである。かれは、<あの名>によって教えたりするな、とあれだけ厳しくいい渡したのに、お前たちは性懲りもなく同じことを繰り返している、どうしてなのか、と質した。続けて、エルサレム中にあの男の教えを広めることでお前たちは、「あの男の血を流した責任を我々に負わせようとしている」(使5:28)といった。
 それを承けてペトロと他の信徒たちはいった。人間に従うよりも神に従わなくてはなりません。あなたたちが殺したイエスを、わたしたちの先祖の神は死者のなかから復活させ、御自分の右に立たせました。わたしたちはその証人であり、わたしたちに与えられた聖霊もそのことを証ししています。
 ペトロたちの台詞を聞いた人々は怒り、殺そうとしたが、ファリサイ派に属する律法の教師ガマリエルがそれを制した(かれは民衆の尊敬を一身に集めてもいた)。慎重に使徒たちを扱うように、とガマリエルがいった。かれはテウダとガリラヤのユダを例に挙げ、使徒たちを殺せば、2人と同じ滅びの道があなた方の前に開けることだろう、と警告した。ガマリエルの曰く、──
 「あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。」(使5:38-39)
 人々はガマリエルの意見を聞き入れた。が、なんらかの罰は与えねばならぬ。そこでかれらは使徒たちを鞭打ちし、<あの名>によって二度と宣教したりするな、と厳しく注意して、釈放した。
 「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、」(使5:41)その後も変わることなくイエス・キリストの福音を民衆に向かって、神殿で、家で、教え続けたのである。

 中1日を挟んで2日をかけ手、ようやく第5章の原稿アップ。感電するような喜び! 安息日を無理矢理設けて、心の憂い事を除けて良かった、と思う(備忘:解決はしていない、相談はした)。その後の勢いで短い第6章のノートも済ませてしまった。気分はちょっと楽になった。
 ──前章の最後にて、所有物を共有する信者のお手本として、キプロス島出身のバルナバとも呼ばれるヨセフが紹介された。本章冒頭ではそれと好対照なアナニア、サフィロ夫妻が登場する。でも、この挿話を読んで、ほっ、とするのはどうしてだろう。再三記されている「心を一つにして」云々が必ずしも事実ではなかったことを知ったためか。信者全員がヨセフの如きであったと想像すると、知らず息苦しくなってしまう。このアナニア、サフィロ夫妻のような者も──虚偽の申告はほんの出来心であったかもしれない──集団のなかにはいたのだ、ということがわかって安堵するのは、それだけわれらが俗世にまみれて生きている証拠であろう。やましいことではない。
 全うに社会人をやっている者なら、己が勤務先を思うと良い。いったいどれだけの者が会社に揺るぎなき忠誠を誓い、その判断と決定に唯々諾々と、盲目的に、無自覚に従い、行動する者がいるのだろう。或る程度の人数を抱える組織には、若干の(実質無害な)アウトサイダーや幾許かの(危険性のない)反対者も必要だ。かれらのような者を指して組織は<ガス抜き役>と呼ぶ。むろん、そんな状態を健全というつもりはないけれど、組織や集団というのはそういう構造であってよい。使徒集団、信者集団についても然りだ。
 律法教師ガマリエルの忠告によって最高法院は使徒たちの殺害(という安直な排除)を諦めた。そのガマリエルの属性について、本文では対応できなかった補足を行う。かれの活動期間はだいたい後25-50年頃とされ、使22:3ではパウロに律法教育を授けたものとして、他ならぬパウロ自身の口からエルサレム神殿の民衆に説明されている。既にパウロが表舞台に登場するための歴史的下地は作られつつあったのだ。そうして次々章では遂にパウロ(サウロ)その人がチョイ役ながらも登場する。
 なお、使5:41に引用した文言は、ルカ21:17にて述べられる、わたしイエスの名のゆえにあなた方は迫害される、というイエスの言葉の実現である。



 昨晩から関東地方は大雨洪水警報が発令され、短時間ながらもたびたび強い雨が大地を打ってる。おまけに風も強かった。今朝も自宅から駅へ行くまでは凄まじい豪雨で電車のダイヤも乱れがちだったのが、会社の最寄り駅に着いたらもうすっかりやんでいた。その代わり、一旦降り始めたらその雨音はバルカン砲の如しで、雨粒も気のせいか銃弾のように感じられる。傘に当たる音を聞いていれば、まるで70年前に戻ったかのようで……。
 しばらく雨が降らないね、作物に影響が出なければいいね、日照り続きでちょっとでも雨が降ってくれれば涼しくなっていいのにな、と、誰彼相手に喋っていたにもかかわらず、降れば降ったで、どうして自分が外出するときにこんなに激しく降るんだよ、とか、傘を持って歩くの煩わしいな、とか、ずいぶん勝手なことをいい始める。まぁ、庭木に水やりしなくて済むのはありがたいけれど。
 お湿りも過ぎれば迷惑と感じる人がいる。そんな自分勝手を諫めようと口に誦す、鎌倉三代将軍源実朝の歌──
 時により過ぐれば民の嘆きなり 八代竜王雨やめたまへ◆

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