第2166日目 〈約10年ごとの村上春樹;離れては戻るを繰り返して〉 [日々の思い・独り言]

 一度ちゃんと書いておこう、と思い思いしながらずっと先延ばしにしてきた話題がある。今日は覚え書きを兼ねて、それを書こう。長いものになるか、短いものになるか、わからないけれど、まずは筆を執って始まりの1文字、──
 どれだけ記憶の糸を手繰ってみても、最初に村上春樹の小説を読むに至ったきっかけ、動機を思い出すことができない。そこに如何なる外的要因、内的要因が働いたのか、まるで覚えがないのである。きっかけや動機がどのようなものであったにせよ、初めて手にし、購入し、読んだのが『ノルウェイの森』だったのは間違いない。ご多分に洩れず、というところだろう。とはいえ、たぶんわたくしとほぼ同世代で、むかしから村上春樹を読んでいるという人がいたら、最初に接する村上小説は結構高い確率で『ノルウェイの森』になるのではないか。そう推測するのだが、果たして実際はどうなのかしら。
 わたくしが高校生の頃、金曜日の19時30分から『はなきんデータランド』という各ジャンルのランキングをメインにした、テレ朝キャスターの朝岡聡と喜多嶋舞、桂文珍の3人のトークで進行する情報エンタメ番組があった。「小説」であったか「本」であったか、ちょっと記憶が怪しいが、そのジャンルの第1位は常に『ノルウェイの森』であった。『ノルウェイの森』が首位陥落するまでは相当の期間があったように覚えている。小説家を志していた時期に観ているものだから、『ノルウェイの森』って凄い小説なんだなぁ、と感嘆し、自分もいつかチャートのトップに君臨し続けるような小説を書くんだ、と息巻きながら、志を新たにしていたっけな。……が、『ノルウェイの森』は当時のわたくしの創作になんら影響を及ぼさなかった様子である。なんというても10代のわたくしはスティーヴン・キングとクライヴ・バーカー、赤川次郎と久美沙織の虜だったからね。無理もない。呵々。
 ところでわたくしは『ノルウェイの森』を読んで、なにを思うたのだったろう。それはおよそ初めて触れる<大人の>現代日本文学であった。緊密な空気と氷のような美しさを孕んだ内容に声を失い、一気呵成に赤と緑の印象的な表紙カバーの単行本上下2巻を読んで、そのあと2回か3回は読み返しただろう。巷間いわれてきたセクシャルな描写もさほどのものとは思えず、それは数年前に読み返したときも変わらぬことであった。
 美しくて儚くて、もろく、<死>の影が跳梁しているにもかかわらず、凜とした静けさを湛えた小説──後年のわたくしが『ノルウェイの森』について抱く読後の印象は、ふとフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を想起させる。このあたり、もう少し敷衍し、深化させれば『ノルウェイの森』が『グレート・ギャツビー』の本歌取り乃至はオマージュであることを示す文章も書けようけれど、いまはさておいておく。
 高校生の頃の『ノルウェイの森』経験のあと、わたくしは村上春樹から離れた。再び読むようになるのは、約10年後のことである。20代後半のわたくしのアルバイト先には海外旅行好きが揃っていた。なかには硝煙の臭いのする地域に(結果として)出掛けること専らな男もいた。そうして当時のわたくしは、未だ文筆で身を立てること能わず、しかし関心は小説からノンフィクションへ移っていた。その頃のわたくしが書きたくてならなかったのは、海外のクラシック音楽のイヴェントや核廃棄物処理場を廻る紀行文であった。
 そんな矢先に見附けたのが村上春樹『辺境・近境』である。これは本当に面白い紀行文だった。いままでにも何冊かの紀行文を読んでいたけれど、『辺境・近境』の乾いたユーモアと事象を見つめる眼差しの真摯さ、映像の喚起力やその地の空気の再現力はダントツである、と脱帽した。当時読んでいた唯一互角と思うのは、当時大流行だった沢木耕太郎『深夜特急』ぐらい。でもこちらとあちらでは意図するところも旅へのアプローチも非常に異なる。同じジャンルでは互角だが、細分化すればそれぞれ差異は生じよう。──それはさておき、──
 アルバイト先へ毎朝、毎夕、まず坐れることなくぎゅうぎゅう詰めのなか、(傍迷惑ながら)へこたれることなくハードカバーの本書を開いて読み耽り、一読して後再読三読して、ここではないどこか他の地、村上春樹描くメキシコやノモンハンを訪ね、国内へ目を転じては香川のうどん屋巡りにウツツを抜かしたい、と考えた……。
 村上春樹の小説を読んでこんな小説を書きたい、と思うたことはないけれど、村上春樹の紀行文を読んでこんな紀行を書きたいとは思うのである。わたくしが村上作品のうち紀行を第一等にする理由の一端がここにあるわけだが、──最初の鮮烈な印象ゆえに──『辺境・近境』を最高峰に推す。『雨天・炎天』や『遠い太鼓』、現時点での最新作『ラオスにいったい何があるというんですか』も良かったけれど、やはりわたくしには本作がベストだ。
 考えてみれば、紀行文の感想はまだ書いたことがないので、今年の課題の1つとして手帳やEvernoteに留めておこう。
 そうしてわたくしは……笑っちゃうことに……その後、再び村上春樹から離れることになる。3度目の邂逅はそれから約10年後のことだ。ウケ狙いではない、事実なのだ。
 と、その3度目の邂逅についてお話しするにあたり、どうしてもご登場願わねばならぬ人物がいる。21世紀に入って通うようになった喫茶店で働いていた女性だ。その頃から喫茶店で原稿を書くようになっていたわたくしは、通う度毎にその女性を好きになっていった。何や彼やで2年間の片想いを経て晴れて交際するに至ったのだが、性生活の不一致と中途半端な互いの家の距離に阻まれて、数ヶ月で破局を迎えた。『1Q84』BOOK1とBOOK2が発売されて世間が熱狂する前後数ヶ月のことだ。
 その女性が「村上原理主義者」と称すにふさわしいぐらいの愛読者で、どの小説もすべて徹底的に読みこみ、一部については暗誦できる程読みこんでおり、ゆえに所蔵する単行本や文庫は手垢に汚れ、すっかりくたびれており、ボロボロだったよ。いうてしまえば結婚をまじめに考えていたことでもあり、それを理由の1つとして自分も村上春樹の小説を最初から順番に読んでゆこうかな、と倩考え、実行に移した──別れたあとも中断することなく読み続けたのだから、その時分にはすっかり村上春樹が好きになっていたのであろう。まあもっとも、2年の片想いを経た後新宿で初めてデートすることになる直前、まこと偶然から『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』と『風の歌を聴け』を読んでいたのだから、そこにはなんらかの<力>が働いていたのかもしれない。が、われらの運命は一瞬だけしか交錯せず、爾来近附いて併走することもない。
 斯くしてわたくしはBOOK3まで出揃った『1Q84』を読了した後、再びデビュー作から刊行順にまずは長編小説、終えたら短編集を読み継ぎ読み継ぎしてゆき、時には感想を書いた。<村上春樹全小説読破マラソン>と称して、わたくしはこれを実行した。件の女性の面影はいつしかわたくしのなかから消えていった。このあたりのことは折々本ブログでも書いていたから、思い当たる方も、なかには居られることだろう(と願っている!)。
 これがわたくしの村上春樹読書の、大雑把な履歴である。トピックとなる点のみ取り挙げて書いたが、潤色、脚色の類はまるで行っていない。ぼかした箇所はあるが、それは本稿と直接関わるところではないためだ。いつかもう一度、この話題で再会することもあるだろう。読者諸兄よ、いまは取り敢えず、「to be continued」というておく。◆

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