第2199日目 〈ガラテヤの信徒への手紙第5章2/2:〈キリスト者の自由〉&〈霊の実と肉の実〉with感想が書けない、とはどういうことだ?〉 [ガラテヤの信徒への手紙]

 ガラテヤの信徒への手紙第5章2/2です。

 ガラ5:2-15〈キリスト者の自由〉
 もし割礼を受けるならばキリストはなんの役にも立たないでしょう。律法によって義とされたいならば、あなた方は誰であれキリストとは縁も所縁もない輩です。
 「あたしたちは、義とされたものの希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。」(ガラ5:5-6)
 果たしていったい誰があなた方の邪魔をして、真理の実践を妨げているのでしょう。こうした誘惑はあなた方を召し出す方からのものではありません。あなた方を惑わす者は、誰であれ裁かれます。
 ガラテヤの兄弟たちよ、よく考えてみてください。わたしが割礼を宣べ伝えていたならば、どうしてこれ程の迫害を受ける必要があるでしょう。もし割礼を宣べ伝えていたらば、十字架の躓きもなくなっていたはず。あなた方を惑わし、かき乱す者らはいっそ全員で去勢してしまえばいいのですよ。
 ──あなた方は自由を得るために召し出された。が、この自由を肉に与えて罪を犯させるようなことがあってはなりません。愛により互いに仕えよ。というのも、「隣人を自分の如く愛せ」という掟が律法全体を要約しているからです。もし相争うているならば、互いに滅ぼされないようにしなさい。

 ガラ5:16-26〈霊の実と肉の実〉
 霊の導きによって歩め。そうするならば、けっして肉の欲望が満足することはない。霊の望むところは肉の望みに反し、肉の望むところは霊の望みに反す。あなた方が自分のしたいことができないでいるのは、零と肉、両方に支配されているからです。が、霊に導かれているならば、あなた方は律法の下にはいない。
 肉の業を行い、耽る者は神の国を受け継がない。受け継げない、というた方が正確でしょう。肉の業とはつまり、姦淫や好色、偶像礼拝や魔術、敵意や争い事、怒り、不和、利己心、妬みそねみ、その他諸々。
 反対に、霊が結ぶ実は愛であります。そうして、喜びや平和、善意や誠実、親切、柔和、節制などであります。これらを禁じる掟など、どこにもありはしません。というのも、キリストに結ばれた人々は肉の業を欲望などと一緒に十字架に掛けてきてしまっているからです。
 「わたしたちは、霊の導きによって生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。」(ガラ5:25-26)

 本日の旧約聖書はガラ5:14とレビ19:18。



 どうしたわけか、昨日、今日の原稿に於いて感想が書けずにいて困っている。思うところがなにもない、というのではなく、泡沫の如くに消えていってしまうのだ。由々しき事態とはこのことを指す。結局、この2日については迷い、悩んだ挙げ句、感想なしという悲惨な為体を曝すことになった……。これまでエッセイを書けなくても感想を書けない、という事態をこうも深刻に思うことはなかったように思う。
 スティーヴン・キングは1980年代後半に陥ったライターズ・ブロックを振り返って、なにかを書こうとしてまるでなにも書けないのは、指の隙間から濡れたティッシュが崩れ落ちて行くようだった、と述懐する。いまのわたくしも似たようなもの……というたらば、きっと中身の入った缶詰でも投げられてしまうだろう。ご存知か知らぬが、これが頭に当たるとその瞬間のみならず数時間経っても頭蓋骨レヴェルで痛みが持続して、まるでこの世の終わりかと嘆きたくなる程の錯乱に悩まされるのだ。これは本当の話である。読者諸兄よ、心して聞いておいてもらいたい。
 無理にでも感想を書こうとして、もがけばもがくだけ、読むに足るレヴェルとは程遠い壁の落書きにも等しい代物ができあがる。時間は無為に経過して、費やした時間と労力に見合う収穫は得られない。どうしてだろう。きっとわたくしは……。
 薄まった執念と献身を取り戻せば、長短の別はあっても再び以前のように感想の筆を執れるだろうか。これを小休止と、わたくしは考えてはならない。◆

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