第2225日目 〈小説『ザ・ライジング』より 2/2〉 [日々の思い・独り言]

 二時間目が始まるころには件の三年生もすっかり落ち着いた。彼女は池本玲子へ丁寧に礼をいって保健室を出て行った。しばらく一人でゆっくり過ごせるかな、この際だから溜まった書類を片付けようか、と考えて特に急ぎのものがあるか探してみたが、年が明けて取りかかってもまったく構わないものしか、机の上にはなかった。そりゃそうよね、一昨日ここで奴隷相手に発散した後、余力を駆って端から片付けてしまったのだから、残りがあろうはずはない。私の記憶も鈍ってきたかな、と苦笑すると、彼女は陽の当たる場所に椅子を動かして腰をおろした。
 いちばん上の引き出しに手が伸びた。鍵が掛かっている引き出しだった。そこにはこれまでずっとくすぶってきた想いを寄せる男の写真があった。この人を私に振り向かせられる日は来るのかしら? 障害ができてしまっている以上、それは難しいかもしれない。でも、かといって忘れられる想いではなかった。一生を費やしても、忘れることはできないだろう。暗い情念がいつも以上に池本の魂を蝕み、闇に捕らえて放そうとしない禍々しい意志が池本の魂を握りつぶそうとしている。それを彼女はしっかりと自覚していた。あの人を手に入れるためなら、殺人だってやってやる。ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。あなたの隣にいるべきはあのガキではなく、私なんだ。なんとしてでも奪ってやる。
 そんなことを考える一方で、
 ──ワーグナーでも聴こうかな、『トリスタンとイゾルデ』……はやめておこう、もっと他のなにか……ちょっと渋めに『リエンツィ』でも。と、視線を棚の上に置いたラジカセに走らせたときだった。頭痛の種がガラリ、と扉を開けて入ってきた。池本はその生徒の顔を見た途端、気づかれぬような溜め息をもらした。
 「おばさま」とその生徒は大股に歩きながら、こちらへ近寄ってきた。顔色が悪いように見えるが、この子のことだ、と池本は考えた。おおかた自分の気に喰わないことでもあったか、あるいは授業をさぼりたいがためのお芝居だろう、と。いずれにせよ、担任には報告しておく義務がある。
 「なんていっておく?」
 「ん、任せる。少ししたら教室には戻るから、心配しないで」
 いや、別にあんたの心配なんかしてないけどね。報告を怠ってお目玉を喰いたくないだけよ。よほどそういってやろうと思ったが、この生徒にそんなことをいうのは時間の無駄のように思えた。叔母と姪という関係ではあるが、そこに血縁者に独特なある種の絆というものはなかった。池本と他の親戚にはつかず離れずの親戚関係があったけれど、目の前にいて突っ立っている生徒と池本の間に血縁意識がなさしめる同胞の親しみはない。まだ幼稚園に通っていた時分に会ったことはあるが、一時間ばかりしか顔を合わせていないし、遊んだわけでもない姪とこの学園で再会しても、関係が密になるわけでは到底なかった。およそなにか共通の目的がない限り、この子とそんな風になることはあるまい。そう池本は確信していた。
 池本は電話を取って内線をかけた。ここにいる生徒──赤塚理恵の担任は、果たして職員室にいた。体調が優れないようだからしばらく保健室で寝かせます、授業が終わる前には教室へ戻せると思いますので、授業をしている先生にそう伝えてください、とささくれだった口調でほとんど一方的にいうと、すこぶる荒々しく受話器を置いた。
 赤塚の担任はこの学園でも古参の一人になるが、一方で生徒や女教師をつまみ喰いすることですこぶる有名な男だった。噂は事実であるがかなり誇張されている部分もあるので、おいそれと訓告の対象にもできず、それ以上にこの男が教育委員会にも発言力を持つ県会議員の息子でもあるため、学園としても(池本と赤塚の祖父である理事長としても)なかなか注意ができないのだった。事実、池本もここに赴任したその年、ずいぶんとこの男に言い寄られ、セクハラ紛いのことをされて不快な思いを味わった。が、彼は持ち前の鋭敏な嗅覚で、池本の中にいい知れぬ恐怖を感じ取ったらしい。だがそれがなんだったのか、はっきり見極める前に、住まうマンションの前で柄の悪い男達に痛めつけられた。以来、彼が池本に手を出すことはなくなった。いまでも誰彼と手を出しているが、その欲望が池本へ伸びることはなかった。ただときどき、ねっとりとした視線を投げかけられることはあるが、危害を加えるまでには至らなかった。ハレルヤ。
 「本当に体調が悪いの?」
 わざとらしいぐらいに親しみをこめたいい方で、池本は姪に訊いた。
 「うん。今日はね、本当に体調が悪い」
 オウム返しに答える赤塚の背中を蹴飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、どうにかそれは抑えることができた。
 「ベッドで横になっていい?」
 「いいわよ。好きなとこで寝なさい。──あ、そうだ、私、今夜の夕食会には出られないから。お祖父様や他のみんなにそういっておいて」
 赤塚が無表情に頷いて、ベッドへ向かった。それを横目で見ながら、椅子を机に向けて池本は、「仕事させてもらうよ」とだけいって、いますぐに目を通す必要もない書類を手にした。早く出ていってくれないかな、安心して写真も眺められないじゃない。
 保健室にはそれから数分、静寂の時間が流れた。時計の針が動く音、ストーブの上に乗せたやかんの口から立ちのぼる湯気と蒸気の音、二人の息づかいと赤塚がベッドの上で寝返りを打つ音だけが、その静寂を破ろうとしていた。
 「ねえ、おばさま?」
 カーテンの向こうから姪の声がした。「なあに」と池本は、そちらに目を向けることなく答えた。
 「昨夜の番組、観た? ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーを募集してたんだけど」
 「ううん、観てないよ。興味ないしね。……それがどうかしたの?」
 「私さ、応募してたんだよね」うつろな声だった。
 「あ、そう。それで?」
 そういいながら池本は、「ちょっと、いまなんていった?」と口の中で訊ねた。ハーモニーエンジェルスの新しいメンバーの応募にあんたが参加した? あらまあ、と放心に近い状態で彼女は思った。世も末だわ……新世紀になってまだ二年なのに。ただね、お祖父様の顔に泥を塗るのだけはやめてよね。まあ、私もあまり人のことはいえないけれど、自分以外に知る人はいないし、私の場合は趣味だからね、男を手玉にとって隷属させるのは。進んでこういう状況を生み出してるわけでもなし、全部男達が自分から身を捧げてきただけのこと――あ、だけど〈彼〉、進路指導を担当している色っぽい先生を恋人に持つ講師の場合は、そうね、あれだけ例外か。あれは私がてなずけたんだから。それはともかくとしても、へえ、あんたがねえ……。
 「選ばれたの?」と、あるはずもない結果を口にしてみた。これでイエスなんていわれたらどうしよう。だが、杞憂だった。
 「ううん、だめだった……三組の宮木さんと深町さんは上位の十人に選ばれてたけど、私なんか名前も出てこなかったよ」
 カーテンの向こうに耳をすませてみると、涙をすする音がした。演技ではなさそうだ。本当に泣いている。
 池本は椅子から立ちあがると、足音をたてずにベッドへ歩いていった。そっとカーテンを引き、こちらに背を向けて肩を振るわせている姪の肩に手を置いた。それはなだめるようでもあり、親しみがこもっている風でもあった。それをさせた感情が果たして真実だったのか、それとも、自分の脳裏へ瞬く間に思い浮かんだ、だがまだはっきりと形を成していない計画を実行するための計算ずくの行為だったのか、池本玲子は後になってさんざん考えてみたが、いつになっても答えは出せそうもなかった。
 いきなり身を起こした赤塚が、池本の胸へ飛びこんだ。「くやしいよ」とひたすら繰り返し呟きながら。下着を着けていない胸に顔を埋める姪の頭を撫でながら、池本はなにかいおうとして口を開いたが、いうべき言葉もないことに気づくとそのまま口を閉じた。
 「選ばれなかったことなんてどうでもいいの。みんなが陰で私を笑っているのに耐えられないの」
 なるほど、そういうことか。砂上の楼閣に住む勘違いお嬢様には、その結果は残酷だったかもね。あれだけのアイドル達の追加メンバーの募集となれば否が応でも衆目を引くだろう。そこにあんたは十代の記念(うーん、そうだったのかしら?)に応募した。結果は芳しくなかったけど、その結果が最悪だった。それに輪をかけたのは、同じ学校の、しかも同学年の二人が名前を呼ばれたことだった。その番組を観ていた人々があんたのみじめっぷりに注目して、陰でこそこそ額を寄せ合い笑ってる。なんでもないことじゃない、といってやればいいのだろうが、いまはそんな風に励ます言葉も喉元にはあがってこなかった。
 ふと、最前頭をかすめていった計画が明瞭な形を取って、池本の脳裏に再び浮かびあがった。あのガキをあの人から遠ざけるために、私は奴隷を使う。完膚無きまでにガキを痛めつけ、あの人を私に振り向かせるために、私はてなずけた奴隷を使う。あのガキは姪の逆恨みを買ったことだろう、本人はまだ知らないだろうが。赤塚理恵はそう簡単に気持ちを切り替えない。相手を傷つけずにはいられない女だ。ならば、と池本は考えた。私の計画にこいつを(白衣とお気に入りのセーターを涙で濡らしてくれている薄汚れた姪とやらを)巻きこむのもいいかもしれない。理恵ちゃん、あんたも奴隷と一緒に共犯になってもらうよ。
 ヘイ、ヤッホー、やったろうじゃないか。
 胸に顔を埋めて泣きじゃくる姪が、無性に愛おしくてたまらなくなった。抱きしめこそしなかったものの(これ以上セーターが濡れるのはごめんだった)、優しく髪を撫でて囁いた。「ねえ、理恵ちゃん。今夜、私の携帯に電話しなさい。もしかしたら、いい話ができるかもしれないから」
 赤塚が顔をあげるのがわかったが、そちらを見るつもりはなかった。せっかくまとまりかけてきた計画が雲散霧消してしまうかも、と考えたからだ。ただその代わり、「きっと君も気にいる話だと思うよ」といい加えた。
 たまらなくいい気分だ。もうすぐ私の想いは実を結ぶ。仕方ないから、あんたの望みも叶えてあげるわ。◆

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