第2272日目 〈読書の嗜好の変化と、<神>の御前に還るための地均しについて:第二次<有川浩祭り>閉幕の前に〉 [日々の思い・独り言]

 たしか今年になって唐突に始まった第二次<有川浩祭り>は現在2つ目のカーテンコールに差しかかっている『植物図鑑』を以てまずは打ち止め。買い溜めた何冊もの小説を消化して、年末あたりには未読の太宰治に着手してせめて2/3ぐらいは読了しておきたい。
 そのあと、わたくしは遂に──というかようやく、神の御座に願いかなって跪くのだ、否、神の御許への帰還を果たすのだ、というた方が正しいな。つまり、スティーヴン・キングの、出版されればすぐに買いこむもののそのまま溜め置いて何年も放ってあるスティーヴン・キングの小説群にどっぷり浸かるのだ。わが神、わが神、これまでの非礼の数々を赦し給へ。
 とはいえ、新たに小説本を1冊買いこむたびに望みの実現はそれだけ遠くなる。摂理と認めたくもないような摂理であるが、仕方ない。それは事実なのだから。どうしてこんな自ら希望を摘まみ取るようなことを口にするか、といえば、今日発売の南木佳士と今月末発売の竹宮ゆゆこの新刊(文庫)を購入する算段を組んでいるからだ。勿論、買い物はこれだけで済むまい。
 雑誌や実用書、ノンフィクションを別としても、即ち小説に限ったことだとしても、前述の文庫2冊だけを買うだなんておよそあり得ぬ話だろう、と察しがついているのだから。今月も中旬になったばかりだから当月発売の文庫新刊は出揃っていない。が、既刊分であっても読みたいもの、欲しいものは幾らでもある。まあ、それらすべてをわが物とすることはできないから、吟味に吟味を重ねてそのうちの何分の一かを購入するが関の山だろう。
 そんな風に倩考えて思考が一巡して後、ふと、自分が好むジャンルっていったいなんだ? と腕組みして中空を睨んで、ふむぅ、と唸って考える(公共の場でこれを行うと、周囲から疑惑と不信の眼差しを浴びること請け合いなので気を付けよう)。然る後に、ああそうか、と軽い溜め息交じりで納得する──10代、20代の頃ならともかく、いまの自分は特定のジャンルを追っ掛けていなかったな、と。
 既に何度も書いたことがあるが、敢えてここでも書く。10代、20代の頃、わたくしが贔屓にしたのは怪奇幻想文学であった。これに淫して他ジャンルへ目を向けることはSFを除けば殆どなかった。赤川次郎と三島由紀夫が精々の例外か。怪奇幻想への執着が薄まり始めたのと入れ替わるようにして、やはり同じジャンルを媒介にして日本の古典文学へスライド、そのまま和歌と漢詩、随筆と国学に興味が絞られて、それらに関連する本を読み耽ってわが20代は終わる。当時愛読したのは『国学者伝記集成』全3巻と『冷泉家時雨亭叢書』、岩波書店の新旧『日本古典文学大系』、そうして『上田秋成全集』であったよ。
 きっかけは30代前半に経験した2つの事件であったろう。それ以後とはっきり自覚しているのだ、読書の方向性が特定ジャンルに淫して耽るものから、読みたいと思うた小説へ手を伸ばすジャンル不問のそれに切り替わったことを。正直、そんな風にして自分の読書の嗜好に変化が生じていなければ、有川浩や米澤穂信を読むきっかけは作られなかっただろう。1作、2作は手にして楽しんだとしても、そこから他の作品へ手を広げてゆくことはなかったのではないか、と思うのだ。時代小説にしても同じだ。葉室麟という媒介はあったと雖も同種の面白さを求めて他の作家のものをいろいろ漁ることはなかった。
 案外と人が1つのジャンルにのみ血道をあげて執着して他を見ない、というのはおよそ不可能なことなのかもしれない。執して他を見ないことと執してなお他へ拡張すること、果たして本読みとして、生活人として、どちらが大切だろう?
 さて、本稿の筆を擱いて後はいよいよ『植物図鑑』の最終フェーズに突入である。本書の主人公カップルが繰り広げる、頬っぺたが火照るのを禁じ得ないぐらいのベタ甘に、久しぶりに身悶えさせてもらうた。思い違いはなさらぬように、諸人よ、そのような理由でわたくしは身悶えたのではない。傷口に塩を塗られたような気分なのだ。『図書館戦争』シリーズの読書中に被った出来事を、このたびもまた思い起こさせられて、キツイのである。なぜか有川浩の甘々な風味の小説を読んでいると、じくじくと痛みの引かぬ患部に遠慮なく触られて、声にならぬ悲鳴をあげてのたうち回って身悶えしているような気になるんだなぁ……。
 でもそれも(たぶん)今日で終わり。明日からはしばらく前述のように、買い溜めて未読のまま放置してあるいろいろな作家のいろいろな小説を読んで暮らすよ(安逸の日々? うん、そうなればいいな、と思っている)。読む順番は未定だが、最初と最後はもう決めてある。それは米澤穂信『ボトルネック』に始まり、畑野智美『海の見える街』で終わるのだ。中間はそのとき次第の出たとこ勝負。ただいえるのは、このなかに村上春樹の未読──通読してはいない、という意味で──の旅行記とエッセイは含まれない、ということ。それはそれ、これはこれ、なのだ。
 いったいスティーヴン・キングの御前に還るのはいつのことになるのだろう。しかし、今回の第二次<有川浩祭り>が終わったことでおおよそのメドは立ち、実現のタイミングが具体化してきたのは事実である。ああ、その日の訪れをわたくしは待つ。再臨(The Second Coming)は突然ではなく予兆あってのことなのだ。われらはそれをパウロの手紙で読んで知っている。
 ──それにしても本稿を読み返して外国人作家の名は<わが神>を例外として1人も出なかった。おかしいな、わたくしは古典も含めて海外小説ばかり読んできて日本のものなど殆ど顧みたことがなかったはずだれど、いつから読む小説が外国人作家のものから日本人作家のそれに推移していたのだろう。おかしくて、ふしぎで、でもなんだか納得できる話ではある。Good Grief.◆

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