第2293日目 〈ヤコブの手紙第2章:〈人を分け隔てしてはならない〉&〈行いを欠く信仰は死んだもの〉〉 [ヤコブの手紙]

 ヤコブの手紙第2章です。

 ヤコ2:1-13〈人を分け隔てしてはならない〉
 主イエス・キリストを信じるあなた方は、人を分け隔てしてはならない。そんなことをしてはなりません。相手の外見や物腰や言葉遣い、自分の感情や偏見などに基づいて、誰かを差別したり、依怙贔屓したりしてはなりません。「あなたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになる」(ヤコ2:4)からです。
 神は貧しい人を選んで、富める者は選びませんでした。神は貧しい人たちに信仰を富ませ、自分を愛する人々へかつて約束した国を受け継ぐ者にした。なのに、あなた方は貧しい人たちを辱め、富める者へ追従する──これはよくないことです。富める者は却ってあなた方を虐げ、主の名を冒瀆しています。
 隣人を己のように愛しなさい、という掟を実行しているなら実に結構なことです。が、人を分け隔てしているのであれば、律法によって違反者と見做されます。よろしいでしょうか、律法全体を守っているとしても、たった1つの点で落ち度があるならば、すべてのことで有罪とされるのです。あなた方はいつの日か律法によって裁かれる者と覚悟して語り、そうして振る舞いなさい。
 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコ2:13)

 ヤコ2:14-26〈行いを欠く信仰は死んだもの〉
 自分は信仰を持っている、と曰う者がいたとします。だが持っているだけで行いが伴っていないならば、信仰は形ばかりのものでしかありません。救われることもないでしょう。
 「行いが伴わないならば、信仰はそれだけで死んだも同然です。」(ヤコ2:17)
 行いなく信仰ある者よ、あなたの信仰を見せなさい。そうすればわたしも、行いによってわたしの信仰を見せてあげよう。
 行いを伴った信仰としてすぐに思い浮かぶのは、「創世記」にあるアブラハムのイサク奉献です。また、「ヨシュア記」にある娼婦ラハブがヨシュアからの斥候を匿い、逃がした一件です。アブラハムもラハブもその行いによって義とされました。
 もう一度いいます、──
 「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(ヤコ2:26)。

 信仰を持つことは誰でもできる。が、その信仰がまことのものであるかどうかは行動によって示される、というのです。双方はいわばコインの表と裏であります。けっして切り離せない間柄、どちらか片方だけでは存在できない。
 ──信仰生活に於いては斯くいえますが、実際の生活面でもこうしたことはあるでしょう。「口先ばかり/考えるばかりで行動しない」とはこれまでの人生のなかで誰もが一度ならず経験していることではありませんか? やるべきことをずるずると先延ばしにする、というのはまさしく典型的事案と申せましょう。
 前半の分け隔て、差別、依怙贔屓をしない、ということについて。そうなのかもしれない、とは思うのです。が、今更というか最早後戻りはできない──そんな状況に置かれている現在、この箇所はわたくしにとって読むことが非常に辛いところなのであります。やれやれ。

 本日の旧約聖書はヤコ2:8とレビ19:18、ヤコ2:21-22と創22:1-18、ヤコ2:23と創15:6、ヤコ2:25とヨシュ2:1-21及び同5:17並びに22-25。◆

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