第2329日目 〈「ヨハネの手紙 二」前夜〉 [ヨハネの手紙・二]

 公同書簡とは特定の、明確な宛先を持たぬ、広く教会や信徒に宛てて書かれた手紙をいう。これに則れば読了した「ヤコブの手紙」や2つの「ペトロの手紙」、「ヨハネの手紙 一」はたしかに公同書簡としかいいようのないものであります。
 では翻って「ヨハネの手紙 二」はどうか、というと、冒頭の挨拶で「選ばれた夫人とその子たちへ」(二ヨハ1)とある。古来よりここに議論が集まったそうですが、その殆どすべてはあまりに考えすぎといいますか。それらは明白な表現のされていない文言をどうにか解析して事実を白日の下に曝したい、否、曝す必要がある、という強迫観念の賜物としかわたくしには思えません。物事は時に極めて単純で、拍子抜けするような事実をわれらの前に提示します。
 ここでわたくしが指摘したいのは、教会は女性名詞で語られてき、信徒は親子関係になぞらえるなかで語られてきた、ということ。これを「ヨハネの手紙 二」冒頭にあてはめれば、やはり他の公同書簡同様、広く教会やそこへ集う信徒(教会の構成員)ということになります。……この公同書簡の定義から逸脱するのはただ1つ、次の「ヨハネの手紙 三」でありますが、これについてはまた明後日に取り挙げると致しましょう。
 但し、実際に本書簡の宛先となったのは、「一ヨハ」よりも狭い地域だったでありましょう。つまり、著者ヨハネが暮らしていた町から多くの日数を費やして赴くような地域ではなかっただろう、ということです。示し得る揺るぎなき根拠は本書簡のなかにありません。が、手掛かりは1つだけ、ある。
 二ヨハ12「あなたがたに書くことはまだいろいろありますが、紙とインクで書こうとは思いません。わたしたちの喜びが満ちあふれるように、あなたがたのところに行って親しく話し合いたいものです」条。
 もしかするとそれは、仮説を補強して望む答えを導くため事実を歪めた結果なのかもしれません。しかしわたくしはこの筆致に物書きの感覚として遠路はるばる訪ねてゆくような場所を想定することに疑問を抱くのであります。なお、二ヨハ12は若干の語句を変更して「ヨハネの手紙 三」末尾にも見られます。
 では「ヨハネの手紙 二」はいつ、どこで、誰によって書かれたか、という毎度お馴染みの話題となるのですが、この点については既に見解を述べてあります(偉そうに申して相済みません)。「一ヨハ」前夜で申しあげたことと変わるところはない──即ち、著者は使徒ヨハネ、時期は90年代後半から2世紀初頭にかけて、場所はアジア州エフェソ。ヨハネの名前を冠する3つの手紙──「一ヨハ」については<手紙>と称することに抵抗がありますが──は時期を近しうして個々に、同じ場所にて筆を執られたでありましょう。
 単一章から成る本書簡の内容ですが、こちらもまた「一ヨハ」と同じであります。反キリストに対する警告であり、神の掟を守って異端に染まるな、という訓戒。全5章をかけて縷々述べられた「一ヨハ」の内容を凝縮させたようなものなんですね、といわれれば返す言葉もありません。事実ですしね。
 わたくしがふしぎに思うているのは、「一ヨハ」と残り2つの「ヨハネの手紙」の関係です。先にわたくしは「一ヨハ」を、手紙本体というよりは手紙に添えられた回状ではないか、と想像しました。
 かりにこの想像が事実だったとして、「一ヨハ」に添えられた手紙がもし新約聖書に収められるとすれば、「二ヨハ」と「三ヨハ」のどちらに可能性の軍配があがるだろうか。わたくしは「三ヨハ」の可能性は薄い、と考えます。
 本体である回状の内容を改めて手紙に書く。それは回状のみでは受取手にその内容がわかってもらえないかもしれない、と考えていることになりはしないか。相手方の理解度を疑問視していることを白状したも同然であります。ならば、個人への指導に終始する「三ヨハ」の方がより相応しく思うのですが、如何でしょうか……?
 それでは明日、「ヨハネの手紙 二」を読んでゆきましょう。◆

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