第2350日目 〈ヨハネの黙示録第3章:〈サルディスにある教会にあてた手紙〉、〈フィラデルフィアにある教会にあてた手紙〉他withS.キング『ミスター・メルセデス』を買いました。〉 [ヨハネの黙示録]

 ヨハネの黙示録第3章です。

 黙3:1-6〈サルディスにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、サルディス教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。生きているとは名ばかりで実は死んでいることを知っている。目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを叱咤し、強めよ。あなたは自分たちの行いが神の前に完全である、と主張する。わたしは認めない。あなたは死にかけているのだ。目を覚まして悔い改めよ。「もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたには決して分からない。」(黙3:3)
 が、幸いなことにサルディスには衣を汚さずに済んでいる者が少なからず存在する。かれらは白い衣を着てわたしと共に歩くだろう。かれらはそうするに相応しい。
 勝利者にこの白い衣を着させよう。かれの名が命の書から抹消されることはない。わたしはかれの名を、父の前で公然といい表す。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 黙3:7-13〈フィラデルフィアにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、フィラデルフィア教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。弱かったあなたがわたしの言葉を守り、わが名を知らないと偽証することもなく、よくわたしの教えに従ったことを知っている。
 サタンの集いに属する人々のなかにはユダヤ人を自称する者がいる。しかし、それは偽称である。わたしは、あなた方の足下にかれらをひれ伏させよう。そこまでしてようやくかれらは、わたしの愛があなた方に注がれていることを知るだろう。
 「あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。」(黙3:10)
 わたしはすぐに来る。だからそれまで自分に与えられたものを固く守っていなさい。
 勝利者をわが神の神殿の柱としよう。かれがそこから立ち去ることはもうない。わたしはその上にわたしの神の都、即ち新しいエルサレムの名を、わたしの新しい名と共に書き記そう。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 黙3:14-22〈ラオディキアにある教会にあてた手紙〉
 主はわたしヨハネに、フィラデルフィア教会の天使に宛ててこう書き送れ、といった。以下は主の言葉である、──
 わたしはあなたを知っている。あなたが熱くもなく冷たくもないことを知っている。あなたがあまりに生温いので、吐き出してしまいたい程だ。どちらかであってくれればいいものを。
 あなたは自分が金持ちであることを誇る。自分は満ち足りていて、改めて必要なものなどなに一つない、と豪語する。あなたは自分がわかっていないようだ。あなたは惨めで哀れで、貧しく、盲目で、裸である。わたしはあなたに、火で精錬された金をわたしから買うよう奨める。裕福になるように。わたしはあなたに、裸の恥を隠すための白い衣や見えない目に塗る薬を買うよう奨める。
 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。」(黙3:19)
 わたしは戸口に立って扉を叩く。その音を聞いて扉を開ける者と一緒にわたしは食事を取ろう。わたしは勝利者を自分と同じ座に坐らせてあげよう。かつてわたしが御父と共にその玉座に坐ったのと同じように。
 耳ある者は“霊”が諸教会へ告げることを聞くがよい。

 昨日のエフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ各教会宛の手紙を読むと、個々の教会がどのような障害に見舞われているのか、或いはその教会がどのような状況にあるのか、推察することができました。
 対して本日のサルディス、フィラデルフィア、ラオディキア各教会宛の手紙では、それぞれの教会が(手紙が書かれた当時は)どのような体質を持っていたのか、よりはっきりと記されております。即ちサルディス教会はもはや「死に体」同然で、フィラデルフィア教会は篤信家が集い、ラオディキア教会はどっちつかずの態度を示しているのです。
 主キリストの言葉を額面通り信じるならば、向けられた言葉の激しいのは最後のラオディキア教会へのそれであります。信仰のあるやなしや、どっちつかずのあなた方の態度にわたしはもう反吐が出そうだ、どちらかに態度を決めろ、と主は迫る。
 そのなかに出る「火で精錬された金」(黙3:18)はキリストに従う者への霊的なまことの賜物である、とフランシスコ会訳の註釈はいう(P697)。これがあることで人は真の意味で、神が求めるのと同じ意味で富者となるのであります。
 黙3:18は一読、神を信じるかどうしようか、心を決めかねている者を信徒にせんが為の買収のように見える文章ですが、勿論そうではない。教会の構成員であり、信徒であるならば態度を決めかねているということ自体があり得ぬ話なのです。神の目に正しいと映ることを行い、神の道をまっすぐ歩くならば、霊的賜物を約束通り与えもするし真の意味での富者にもなれる、そうして「白い衣」(黙3:4及び18)即ち弱い人間が持っている惨めさを覆い隠す神の恵みの象徴(フランシスコ会訳 P697)を与えて、あなた方を癒やそう、というのであります。
 黙3:12に出る「わたしの新しい名」ですが、終末の時にキリストが勝利者に与える栄光に満ちた、永遠不変の名前である、とされているそう。一方ではキリスト再臨の時に信徒のみが知ることができるキリストの新しい名である、とも。これについてはわたくしからどちらかの説を支持することはやめておきます。わたくし自身、どちらに与する意見を持っているのか、しかと考えてはいないからであります。

 本日の旧約聖書は黙3:7とイザ22:22、黙3:12とイザ62:2。



 また未読の海外小説が溜まってしまいました。スティーヴン・キング『ミスター・メルセデス』上下(文藝春秋)を会社帰りに買ってきたのです。お陰で本日の聖書読書はまったくこなすことができず、明日から自転車操業の日々が始まるのは必至。
 でも、構いません。「ヨハネの黙示録」が終わるまでは脇目も振らずにその読書と執筆に勤しもう、と決めてはいても、キングの小説を発売日に買うことはそれに優先されるべき事項なのですから。まぁ、購入しても未読のキング本の山に積むことしかいまはできないのですが……。
 9月中旬に「ヨハネの黙示録」を読み終え、未読の小説の山を片附けた後、憂うことなくまだ読んでいないキングの小説群に溺れることと致しましょう。その日の訪れがいまは唯一の生きる希望。大袈裟ではない、本心からの思いである。笑うな。◆

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