第2380日目 〈『ザ・ライジング』第1章 1/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 「失礼しました」
 木之下藤葉は一礼して職員室を出た。水泳部の部長に選ばれるとき、必死になって抵抗したのが嘘のように、いまはこの職務(?)に馴染んでいる。抵抗した唯一の理由は、毎日の練習のあとで部誌を書かされなくてはならないからだった。何時間も泳いだ後の疲れ切った体でそれをやるのは、まるで狂気の沙汰に思えた。なまじ全国大会を制覇し、オリンピック選手を何人も輩出している水泳部の部長ともなれば、個人の練習はほとんどできず、やらされる(“やるべき”ではなく)雑用も多い。そのダメ押しともいえるのが、毎日の部誌の執筆であった。部員の記録も兼ねているこの部誌は、そのまま日々の練習プログラムにも反映される。文章の苦手な藤葉にとっては、まさしく拷問。
 はあ。大きな溜め息がもれた。教室に待たせている森沢美緒と深町希美を思った。クリスマスの相談でもしてるかな? きっと待ちくたびれているだろうなぁ……。帰りになにかおごらなきゃいけないかな。でも、彩織ン──希美の幼な馴染み、宮木彩織がいなくてよかった。いたら、お財布の中がスッカラカンになってしまうのは間違いない。たまらず、口許に笑みが広がった。そんなときだった。
 「──むかつくのよね」
 知らぬ間に背筋を伸ばしてしまう。誰だろう? 私のこと?
 エレベーターホールを過ぎて吹き抜けになっている階段の、いちばん下の段に足をかけたまま、耳をすましてみた。静かだった。思わず耳鳴りを覚えてしまうほどの、底知れぬ静けさ。生きとし生けるものがみな息絶えてしまったように、なに一つとして物音が聞こえない。
 「──絶対に許さないんだから。破滅させてやるわ、必ず」
 一階から聞こえてくるようだった。そこには学生食堂や保健室、聖テンプル大学付属沼津女子学園高等部の全学年の下駄箱がある。声の主はどうやら、階段を降りきったエレベーターホールと下駄箱の間にいるようだ。藤葉は階段の手摺りから身を乗り出してみた。そうすれば階下が見渡せ、声の主も特定できる、といわんばかりに。だが、一瞬気が遠くなっただけで、声の主ばかりでなく、誰の姿も視界に捉えることはできなかった。
 体勢を元に戻して二、三段昇り、立ち止まる。耳をすましてみた。なにも聞こえない。 気にすることはないや。そう、その通りだ。だって私のことじゃもの。
 そう自分を納得させ、藤葉は教室に向かった。外はすっかり陽が落ち、愛鷹山の稜線はおろか、その向こうに聳える富士山の姿も、藤葉達三人が正門を出てバス停で沼津駅行きのバスを待っているころには、単なるシルエットでしか見えなくなっていた。

 沼津港行きのバスの揺れに身を任せながらTOKIOの《Green》を聴いているうち、深町希美は浅い眠りに落ちていた。女声のアナウンスは聞こえている。しかし、心はまるで闇をたたえる淵の底から伸びてきた触手に絡みとられたように、ゆっくりと深淵へ落ちこんでゆく。起きようとしても体はそう簡単にいうことを聞いてくれそうにない。
 ──起きなきゃ。
 さもないと、もう一つ先のバス停で降りる羽目になる。
 膝の上に乗せた鞄の重さがそろそろ応えてきた。寝言ともうなされているともとれる、言葉にもならない言葉をムニャムニャと呟きながら、希美はバスのアナウンスに耳を傾けた。どうやら緑道公園を通り過ぎたらしい。そこは嘗て、港へ行く廃線の線路が敷かれ、草が伸び放題だったらしい。両親が子供だった時分は、海岸と千本松原、そしてこの在りし日の緑道公園が遊び場だった、と何年か前に聞いたことがある。両親……。
 「次は、千本緑町、千本緑町──」
 希美は、はっと目を覚ました。
 降りなきゃ。
 鞄を抱えながら、窓の脇にある降車ボタンを押した。チャイムが鳴り、運転手が次で停まることをマイクで告げた。
 MDを停めてイヤホンを耳から外す。席から立ちあがると床に置いてあったテューバのハードケースを持ち、昇降口のそばへ移動した。これまで私、何千回ここで降りたんだろうな、そう思っているうちにバスは停まった。扉が開くとハードケースを右手にしっかり持ち、ぶつけないように気を遣いながらバスを降りた。他に降りる人はいない。すぐに扉が閉まり、バスは次の停留所めざして去っていった。
いま来た道を少し戻り、ちょうど青信号に代わった交差点を渡って、千本公園の手前で折れる帰り道──街灯が少ない代わり、道に面した家々から洩れる明かりのせいでさして危ないとは思えぬいつもの帰り道を、師走の寒風が吹きつける中をたどっていった。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。