第2389日目 〈『ザ・ライジング』第1章 10/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 背筋を寒気と怖気が走っていった。鼻息が荒くなり、肩がけいれんするような感覚を覚えた。視線がうつろになってくるのがわかる。口も半開きになりかけていた。
 頭を振って固く目を閉じ、念仏を唱えるように何度となく口の中で呟いてみる。それが護符である、とでもいうように。目をつむってしまえ、そうすれば次に目蓋を開いたときには怖いものはいなくなっている。
 あまりに固くつむっていたせいか、目を開けるとしばし立ちくらみにおそわれたが、洗面台の縁を手で掴んでよろける体をどうにか支えた。知らぬうちにやや呼吸も乱れていたらしく、息を吸っては吐く音がはっきりと聞こえる。下に落としていた視線を、再び鏡の中へやった。
 今日洗う必要なんてないよ。だって毎週水曜日の夜に洗濯してるじゃない。明日するのよ? 学校が終わって帰ってきたら、すぐにやればいいだけのことじゃない。
 「そうだね」と希美はいった。「予定は乱しちゃいけないよね」
 希美はジーンズとパーカーを脱いでたたみ、脱衣カゴの上に置き、下着をドラム缶の中に放りこむと、浴室のガラス扉を開けた。希美の裸体の輪郭が艶めかしく光り、やがて見えなくなった。

 艶めいた黒髪を結いあげてほどけないようにまとめ、丁寧に体を洗い終えると、湯船へ体をゆっくりと沈めた。頭の上でぶんぶんと唸り声をあげている浴室乾燥機の音をなるたけ無視して、目を閉じて耳をすましてみた。街路を駆け抜けてゆく風は帰宅したときよりも、さっき外の鍵を確認したときよりも、ずっと荒々しくなってきたようだ。いやだなあ、と独りごちた。公園から舞ってきた葉っぱがきっとガレージや門のところに吹き溜まって、否応なしに掃除しなくちゃならなくなるんだよね……。
 ぼけっと壁のタイル地を眺めながら(継ぎ目の汚れがめだっているところがあった。大掃除の前に洗剤で落としておいた方がいいなあ)、今度のデートのことを考え(どこに連れてってもらおうかな、横浜でしょ……お風呂からあがったら、ママ達の部屋に横浜のガイドブックがあったな。少し前のやつだけど、それを見てみようっと)うつらうつらし始め、くしゃみが出た。
 そろそろ出なきゃ。のぼせちゃう。――あ、歯磨き。
 (「希美が真似したらどうするのっ!?」母が夫に諫めた。父にいわれて体をごしごし洗っていた小学二年生の希美が、浴室の扉を開け放って仁王立ちし、腰に手をやってこちらを見おろしている母を、どうかしたの、とでも言いたげな目で見つめた。が、母の視線は自分ではなく、父に向けられていた。父は、浴槽に腕をかけ、上半身を乗り出すようにして、歯を磨いている真っ最中だった。歯ブラシを動かす手を休め、泡でいっぱいになった口を開き、「ぼふがじだのがひ?」と訊ねた。夫の間の抜けた声と顔をまともに正視するのは無理だった。母は破顔一笑した。床に笑い転げることはさすがになかったが、夫を指さし、文字通り腹を抱え、目から涙を流しながら大笑いした。つられて希美も吹き出した。笑いの元凶たる父も口の中の泡をたらふく溜めたまま、笑い出した。親娘三人の笑い声が、家全体をリフォームしたときにそれまでより広くした浴室に響いた。三人の幸せに満ちあふれた笑いは、「っくちょん」という希美の小さなくしゃみでひとまず幕となった。「希美とお風呂に入るときは歯磨くのやめてよね」とガラス扉を閉める際に、母が釘を刺したのを、希美はいまでもなんとなく覚えていた)
 確かにあれからというもの、父は希美と一緒に風呂へ入っているとき、歯を磨いたことはない。が、その光景はしっかりと希美の脳裏に焼きついてしまっていた。一人で入るようになってしばらくすると、歯ブラシセットを持ちこんで浴槽の縁に腕をかけてぼんやりととりとめのないことを考えながら、歯を磨くことが習慣になってしまった。母に見咎められても懲りることなく、それはいつ如何なるときでも続けられた。せいぜい学校行事や部活の合宿でどこかへ泊まったりするとき以外は、その生活原則が破られることはなかった。彩織にからかわれることがあっても、やめなかった。
 今度からクリスマスもお正月も誕生日も、なにもかも一人で過ごすのかあ……。〈旅の仲間〉やあの人がいるとはいえ、はあ、淋しいなあ。
 ふいに目頭が熱くなり、指で両眼を拭った。鼻をすする。
 途端、なんだか懐かしい気配を感じた。甘くてやわらかい、あたたかくて優しい、まるで春のそよ風を思わせる気配。浴室に満ちていた湯気が、すうっ、と引いてゆく。しゅう、という音がして、忘れようはずのない声が耳を撫でた。そう、はっきりと聞こえた。幻聴であるわけがない。でも――。歯ブラシが手から滑り落ちて、床に転がった。コトン。
 「希美――どうしたの? 心ここにあらず、って感じだったよ?」□

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