第2390日目 〈『ザ・ライジング』第1章 11/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 息を呑んで、声のした方へ振り返った。幻聴であるはずがない。でも、あり得ない。
 湯船の反対側に母がいた。娘と同じく黒髪を頭の上でまとめ、タオルで巻いている。十七年見馴れたふっくらとした母の顔。目尻に少しばかりの皺こそあれ、それが却ってもとより母の持っていた上品さとしとやかさに磨きをかけていた。豊かな胸のふくらみが、湯に浮いている。
 「どうしたの、のんちゃん? ママじゃないの」小首を傾げながら娘を見つめる母は、両腕を希美の方へ差し伸べた。「こっちにいらっしゃい。お話ししましょうよ」
 ママがいるわけがない。そう思いながらも、目の前にいるのがたぶん幽霊というやつなのだろう、とわかっていながらも、体は抗うことなく、母へ寄っていった。
 「ほんと、この浴槽広いわよね」と娘の肩に手をかけて母がいう。
 「パパがこだわったから」
 「覚えてるんだ? ねえ、パパのいちばん大好きな場所だったし」口許をほころばせながら母がいった。
 希美は顔をしかめた。なんだろう、この匂い。
 それ以上考える間もなく、母が呼んだ。「オーディションはどうだったの? 彩織ちゃんと応募した、あれ」
 「うん。さっき彩織から電話があってね。今日が国民投票の上位十人の発表だったの。そうしたらね、私達二人ともその中にいたんだよ!? ぜんっぜん信じられなくって、いつもの彩織の冗談かと思っちゃった。怒られたけどね」
 喋っているうちに興奮してきて、思わず息が詰まった。母は一瞬たりとも娘から視線をそらさず、頷きながら聞いていた。「でもね、十人に選ばれたんだよ。彩織は最初から歌手になりたい、っていってたから違うんだろうけど、私はなんだかもうここまで来られただけでいいや、って感じなんだよね。けど、十人ってすごいよね。何万人も応募してきてそのうちの十人なんだもん。なんだかうれしい、っていうよりもまだ信じられないよ。彩織が今日のヴィデオ、明日貸してくれるっていってるけど、それ観てもまだ信じられないと思うんだよねえ」
 邪気のない笑顔で話す娘の頬を撫でながら、母の目から涙が一条流れ、湯に落ちた。
 ほぼ同時に浴室の隅っこで、パチャ、っという音がした。なんだろう。希美は音のした方へ目を向けた。タオル掛けからタオルが一枚、床に落ちているのが見えた。あの音か。
 「ねえ、のんちゃん」
 母の呼びかけに答えようとして、ためらった。さっきと同じ匂いがまた鼻をついたからだ。今度はすぐに消えそうもない。
 「希美?」
 ううん、と首を振りながら母の方へ向き直る。母はいなかった。いや、正確にいうべきか。生前と変わらぬ姿で希美の話を聞いていた母はいなかった。代わりに希美に対坐していたのは、顔の半分が焼けただれて赤黒い肉に髪がざんばらに付着した、片眼がねばつく筋を引きながら内側へめりこんでいる、この世の者ならざる姿をした母だった。顔のもう半分は頭蓋骨ごと砕けて脳髄や神経が枯れ木の枝のように乱舞していた。首や肩も、ある箇所はめくれてひくついている肉を見せ、ある箇所はぽっかりと穴が空いている。ところどころにガラスや板の破片が突き刺さっているのが見えた。
 異類の姿を目の当たりにしても、希美の口から悲鳴や絶叫はあがらなかった。超自然の存在と正面より向き合ったときは、得てしてそんなものだ。確かに喉もとまで目の前の異類を否定する叫びは出かかっていた。全身を縛っている恐怖が解けたら、ためらいなく叫んでいたかもしれない。半分開きかかって小刻みに震えている口許を見れば、きっと誰しもそう思っただろう。しかし、いま目の前にいるのはどれだけ姿が違っていようとも、自分の母親であることに変わりはなかった。希美にとっては自分を生み、育て、慈しみ、愛してくれた“大好きなママ”。時には厳しく叱り、時には優しく抱きしめてくれたママ。
 「ママ……」
 おそるおそる手を伸ばしてみる。母の表情がちょっと変化したように思えた。なんとなくそれが希美には、ほほえんだのだ、とわかった。頬に熱い雫が垂れてゆく。一人でいて淋しくなってもこらえていた涙がしとどにあふれてきた。涙のせいか、目の前がかすんでくる。
 「なんで死んじゃったのよ……」
 母の、ほんのお情け程度でしか肉の付いていない指が、差し伸べてきた希美の指に絡まった。互いの愛情を確かめるように、掌を重ね合わせた。そしてただれた左腕が希美の背中にまわされ、抱き寄せた。それに抵抗することもなく、希美は母の両腿の間に割って入り(しげしげと眺めて確かめたりはしなかったが、ざらざらとした肌触りを、脇腹や掌に感じた)、焼け焦げて肉のただれた胸元へ、下唇を噛み、目をつむり、顔を埋めた。ふしぎとそこは、あたたかかった。
 そうだ、私はこの人のここで育ったんだ。
 やがて希美はさめざめと泣き、より強く母の胸元へ顔を押しつけた。懐かしい思いがこみあげてきた。
 「なんで死んじゃったの……?」
 「一人にしちゃってごめんね。パパもママもそんなつもりじゃなかったのよ。――希美に淋しい思いをさせちゃって、ごめんね。でもね、のんちゃん。これだけは覚えていて。私達はいつでもどこでもあなたを想っているし、見守っている。大丈夫、希美は強い子だもの。きっと……は……生きて……愛してるわ」
 そして、母は消えた。
 いや、行かないで、ママ。ずっとそばにいて。私にはパパもママも必要なの。だから帰ってきてよ……。私だって話したいことはたくさんあるんだから……もっといて、行っちゃやだ。ママ、もういちど出てきて。
 「お願い、私を一人にしないで……」
 浴槽の縁に左手をかけ、前屈みになった上半身を支えるため、拳にした右手を浴槽の底に押しつけた。ほどけた髪が顔の横や肩へ垂れ、毛先が湯に浮かんだ。涙が頬や鼻の頭をぬらし、音を立てて落ちた。「もうひとりぽっちはやだ。一人にしないで、お願いだから……」
 刹那の後、全身から力が抜けた。右肘ががくんと折れ、左手が滑って湯の表面を打ち、体全体が前のめりになって、頭が湯に沈んだ。
 自分でも意識が遠くなってゆくのを感じる。ゴポゴポ、っという音が耳のそばで果てしなく続いた。気のせいか、湯水に塩の味がした。目の前に黒い雲が漂ってき、やがて人の姿となった。長い衣を頭からすっぽりとかぶっている。それが希美を手招いていた。しわがれた声でその者が笑う。その背後から聞き馴染んだ声が、自分を呼んでいた。
 希美は顔を湯に浸けたまま、気を失った。□

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