第2382日目 〈『ザ・ライジング』第1章 3/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 昨夜、寝しなに聞いていたのはなんだったっけ? タンポポだったかな、それとも、ロジャー・ボボ?
 操作パネルを見ると、昨夜はMDが聴かれていたようだ。あ、そうか、タンポポを聴いてたんだけど、すぐに寝ちゃったんだ。再生ボタンを押すとややあってから、《恋をしちゃいました!》が流れてきた。目下のところ、希美がいちばん好きな歌だった。その軽やかなメロディを口ずさみながら、クロゼットを開けた。
 制服の柄に合わせたわけではなかったが、希美が通学のときに(好んで)着るコートは、色はそのときによって違うけれども、たいていが青いチェック柄のコートだった。袖のところが茶色のファーになっている。希美の通う学校では夏冬の制服こそきちんと定めているものの、コートやカーデガンに関しては“みずぼらしくなく、だらしなくなければ”さほどうるさくは決めていなかった。衣服について校則を細かく定めていては、逆に学園の品位を貶める結果になるかもしれない、という憂慮から生まれたものだが、それを知っている生徒も教職員も、実はあまりいない。
 希美はまだ少しかじかむ指でコートのボタンをはずし、ハンガーに通してからクロゼットの端に掛けた。ライトグレーの、左腕に校章のワッペンがあるブレザーとグレーの格子模様のベストとスカートを脱ぐと、きちんと皺を伸ばしてからハンガーに掛けた。しばし制服を眺めながら、この制服ってそんなに人気あるのかな、と考えた。美緒ちゃんはこの制服着たさに入試を受けたっていってたし、県内の他の女子高生でもこの制服に憧れてる人は多いらしい。それを知ると少し誇らしい気分になったが、セーラー服の方が簡単なのにな、と思わないでもなかった。
 臙脂色のリボンをほどき、ブラウスを脱ぎ捨て、黒のストッキングと白のソックスも脱いで、洗いざらしたブルージーンズに足を通した。お腹のあたりがちょっとふくらんでいるような気がする。太ったかなあ、そんなに食べてないけどな……はあ。
 頭をあげた拍子に、クロゼットの扉に掛けた鏡の中の自分と目が合った。上半身へ目をやってみた。色白の肌に水色のブラジャーが映えていた。ブラジャー越しに掌を置いてみる。うーん、と希美は唸った。もう少しだけ欲しいんだよなあ。進路指導の大河内先生ほどじゃなくていいから、せめて、彩織や美緒ちゃんぐらいは。楽器やるのに胸の大きさは関係なさそうだから、うん、もうちょっとだけ。あの人に揉んでもらったら、大きくなるかしら? 希美の顔が真っ赤になった。まだしてもいないのに、私ったらなに考えてるのよ!?
 そんなとき、くしゃみが出た。
 「っくちょん!」
ついでに鼻もすすってみる。あまり上品とは言えないが、だって鼻水出ちゃうんだもん。〈ののちゃんのお子ちゃまくしゃみ〉と、くしゃみするたび木之下藤葉にからかわれる。希美としてはそろそろ聞き飽きてきているのだが、誰もそれをいわない。藤葉を恐れてではない。宮木彩織や森沢美緒にいわせると、希美の反応がときどき面白いからだ。失礼しちゃうよね。でも、風邪なんかひいたらシャレにならないな。秋の吹奏楽コンクールに出られなかったのに加えて、来年のアンサンブル・コンテストにも出られなくなっちゃう。よしんば出られても、不調のまま出場するのは絶対嫌だ。
 厚手の、フードのついた濃紺のパーカーを頭からかぶり、最後にこれまでツインテールにしていた髪の毛を結んでいた輪ゴムを取り、二、三度頭を振った。手櫛でおおざっぱに整えて、鏡を覗く。白い歯を出して、にっこり笑ってみた。八重歯がほっそりとした輪郭に相俟って大人びた顔立ちを、鏡の中に映している。うん、悪くない。決して悪くない。髪をおろした私も、えへ、なかなか美人さんだぞ。まあ、時には実年齢より年下に見られるのが癪ではあるが、それだって私のチャーム・ポイントだ。そうそう、なにごともポジティブでいこう。
 さて、では灯油を入れちゃいますか。クロゼットの扉を閉め、部屋の電気を消そうと指がスイッチに触れた途端、お腹の虫が派手に鳴いた。さっきほどではないが、顔が赤くなっていった。ふーちゃん達に聞かれてなくてよかったあ。もっとも、彩織はいつも聞いてるけどさ。――っくちょん。〈ののちゃんのお子ちゃまくしゃみ〉、再び。
 冷蔵庫の中になにがあるか、それを確かめてから、真冬の夜の給油作戦を始めよう。
 希美は廊下を挟んである台所に足を向けた。□

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