第2433日目 〈『ザ・ライジング』第2章 30/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 池本玲子と別れた(彼女から釈放された)あと、どうにかこうにか階段をのぼり終えたときには、すっかり息が切れていた。心臓が早鐘を打ち、額へは脂汗がにじんでいた。池本の豪勢な体を堪能しただけではすまなかった保健室での出来事を思い出して、上野は全身に悪寒が走ってゆくのを感じ、底無しの恐怖に襲われた。
 君には仕事をしてもらうからね、といった池本の声が耳に残って離れない。その声は冷酷で、有無をいわさぬ口調だった。抗うことはできそうもない、そう判断して上野は彼女のいう〈仕事〉について訊ねた。その後ほど、上野が池本と関わり合いになったことを後悔したことはなかった。なんで俺がそんなことをしなくちゃならないんだ……。しかし、彼女の計略に従えば、かなえとの未来が約束される。彼の不安を払拭するように、池本は念書まで、自発的に書いてくれた。拇印まで押して。――もう後戻りはできないのか……、上野はポケットに入れた、折りたたんである念書を握って、呟いた。
 上野は講師控え室に戻ろうとして足を停めた。誰かいたらどうしよう。吹奏楽部の誰かが用事を持ってやってきたらどうしよう。俺は一人になりたいんだ。だから出てってくれ。そう叫びたいのはやまやまだが、こちらは身分不安定なしがない一講師、そんなことを言えた身分ではない。
 足が小刻みに震えていた。長時間の正座のあとで経験する痙攣に似たそれだった。収まるまで、しばらくこのままでいようか、と思い、あたりを見まわした。人の気配はない。もう帰りのホームルームで、担任を持っている教師はそれぞれの教室へ行ってしまっているようだ。放課後ともなれば廊下を歩く教師の数も少なくなる。担任のない教師でもそうだが、部活の準備にはまだ早く、職員室でこなすべき事務仕事がたまっているせいだった。俺も常勤になったら、そうなるんだろうな、と上野は独りごちた。これまでは不安定だった希望が、いまはほんの少しだがより具体的なイメージとなって、目の前に現れた。その延長線上にあるのは、かなえとの幸せな生活、もはやなにものにも脅かされない安息の日日。だが、それを生み出すのは刑務所生活と背中合わせの犯罪行為。
 職員室の方から足音が聞こえてきた。だんだんとこちらへ近づいてくる。手摺りを握る手に、思わず力が入った。汗でじっとりと濡れている。エレベーターホールに姿を見せ、階段の方へ歩いてきたのは、今日の授業は一コマだけしか持っていない、少しくたびれた風な美術の講師だった。授業のある日もあまり重ならず、ほとんど顔を合わせないので詳しくは知らないが、画壇の一部では評価されているが個展も滅多に開かないために実力に比して知名度の低い日本画家であるらしい。画材や画集の入った大きな鞄を肩から提げ、手には画板とスケッチブックを持っている。これから帰るようだ。
 画家が上野を見つけ、訝しげな顔をちょっとしてからすぐにそれを引っこめ、会釈してよこした。上野もつられて、頭をさげた。
 「どうしたんですか、汗までかいちゃって?」と画家は聞いた。
 「いや、なんだか体調が悪くって……」
 うん、事実だ。五時間目が始まる前は恋人と一緒で、すごく気分がよかったんですけれどね。六時間目の最中に悪い女王様からとある少女を傷物にしろ、なんて命じられたものだから。そりゃあ、気分が悪くなって当たり前でしょう?
 「いま、保健室で薬をもらってきたんですよ」
 「ああ、そりゃいけませんな。いまより悪くならないうちに策を講じないと」
 「はは、まったくですね」
 いまは悪くない、と上野は口の中で呟いた。だが、すぐにいま以上に悪くなる。講じる策なんてないんだよ。□

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