第2434日目 〈『ザ・ライジング』第2章 31/38〉 [小説 ザ・ライジング]

 画家と別れようとしたときだった。階段の下から足音が聞こえる。リノリウムの床を歩く、かつんかつんと小気味よい音だ。女性だ、と上野は思った。この時間、一階にいるような女性なんて、あいつ一人しかいはしない。
 さっさと画家と別れて、その場を離れようとしたときだった。画家が足音の主に気がついて、笑顔を見せて「池本先生」といった。
 「こんにちは。もう授業は終わりですか?」書類を胸の前で抱えながら池本は、画家へさわやかな笑顔を見せてそう訊いた。上野には一目もくれなかった。
 「そうなんです。これから帰って、もうすぐ完成する大作の仕上げにかかろうと思っています。――池本先生はまだ終わらないんですか?」
 にこやかに頷きながら、「残念ですけれど」といって、上野を見やった。「今日は帰ったら、静かに休んでた方がいいですよ」
 上野は「はあ、そうします」とだけ答えた。
 「先生、もしよかったら今度、お食事でもどうですか」と画家はいった。「箱根に行きつけのいい店があるんです」
 「あ、うれしいな。そうですね、年が明けたらまた誘ってください。そのときにはエスコートしてくださいね」
 笑みを絶やさず池本はそういった。二人に会釈すると、その場を去って職員室に向かった。
 「いいですよねえ、池本先生。そう思いませんか?」
 去ってゆく池本の足と尻に好色な視線を投げかけながら、画家は上野に同意を求めた。
 「美人とは思いますが、どうも僕には雲の上の存在ですね」と上野は笑って答えた。その一方で、池本を誘った夜は覚悟しておけよ、と考えた。自信がないなら諦めた方がいい。なんたって女王陛下を満足させるのは、並大抵のことじゃないからな。あれ、と上野は考えた。犯罪に手を貸して解放されて、俺がかなえとの不安なき日々を過ごすようになったあと、池本は目の前にいる画家を、自分の性奴隷に任命するのだろうか、と。そうかもしれない。飛んで火にいる夏の虫だからな、この男は。まあ、どうでもいいか。こいつがどうなろうが、俺の知ったことじゃない。
 「じゃあ、失礼します」といって、上野はその場を離れた。階段を降りてゆく画家の足音が、かすかに耳についた。
 念書に指が触れた。君には仕事をしてもらうよ。そうしたら解放してあげる。池本の声が胸に響くと共に、自分が未来ある一人の少女にのしかかってゆく光景が浮かんだ。少女の顔は苦痛と恐怖にゆがみ、自分の顔はきっと……飢えた野獣か狂人か見分けがつかないだろう。吐き気がこみあげてきた。耐えられそうもない。上野は青ざめた顔で、トイレに駆けこみ個室の扉を思い切り閉めると、便座を抱えるようにしゃがみこんで嘔吐を繰り返した。□

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