第2447日目 〈『ザ・ライジング』第3章 3/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 ……白井さん
 湯上がりの体にバスタオルを巻きつけただけの姿で、希美は両親の寝室にいた。ダブルベッドに長々と寝そべって、うつろな眼差しで天井を眺めている。エアコンで暖められた部屋にいると、ここの主人夫婦が生きていたときの残り香が、はっきりと漂っているような気分にさせられた。残された情念も一緒に。
 タンポポの《BABY! 恋のやじろべえ》のフレーズが、さっきからずっと希美の心にまとわりついて離れようとしなかった。今夜は大好きが止まらない。執拗にからみついたそれはやがて、想う男へのメッセージに変化した。今夜は、どころではない。彼を想えばその想いは留まることがない。言葉以上の感情がこもった言葉を口にしてみる、「大好き」と。嘘や偽りではない。この言葉を何万語と書き連ねれば、沼津と小田原の距離もいつしか埋まるだろう。天下の険を越えるのだって困難ではあるまい。
 大好き。
 でも、それだけで結論を出してしまっていいの? そっと声に出してみる。反応する声はない。あれ以来、両親の姿は見かけていない。もしかしたら、という考えも空振りを続けた。
 (彼はいった、「答えがイエスなら今度の日曜日、沼津駅の改札で待ってる。もしノーなら……わざわざ足を運ぶ必要はないよ」と。
 「それまでに――あと数日しかないけど、イエス・ノーを出せるかどうか、私には約束できないよ。いってくれる気持ちはうれしいけど、それに応えられるかどうかはわからない。ごめんなさい」と希美はいった)
 四日前、水曜日の夜にかかってきた電話での会話が思い出された。以来今日まで、何度反芻したかしれない会話。
 就職先を迷うのって、長い一生から見ればほんのわずかな時間だろう、と希美は考えた。両親が心ならずも遺してくれたこの土地と家を、そして自分自身の生活を維持してゆくぐらいの収入があれば、会社を選り好みするつもりはなかった(家のローン返済はすでに今年の初めに終わっており、借金がもうないことだけが唯一の幸いだった)。が、だからといって、ここから離れて暮らすのだけはごめんだ……そう、いまとなっては。それに――と希美は思った。就職しても何年かしたら結婚して、家庭に収まるつもりでいたしね。まあ、二十三ぐらいで――パパとママがそうだったように――結婚したいな。
 でも、いまの私が抱えている悩みは、就職以上に自分の未来を左右する。女の子なら誰もが憧れるであろう夢。その夢がもう少しのところで実現しようとしている。彼の申し出を断るのなんて簡単だ。しかし必ずや後悔し、恨むであろう。他ならぬ自分自身を。彼は、両親を失って暗澹としていたときに、友人らと一緒に陰に陽に私を支えてくれた、大事な男性だ。彼の代わりを務められる人なんて、誰もいない。それだからこそ、迷いが生まれるのかもしれない。申し出を断ることは、イコール、私達の関係に終止符を打つこと。そう、簡単なことよね。たった一言、「ノー」といえばそれでもう済むのだから。だが、先方の受けるショックは如何ばかりのものだろうか。そして、私は心にぽっかり空いた穴を、この先どうやって埋めてゆけばいいのだろう。別れてしまえばそれっきりで、時間が経てば忘れてしまえる想いだったの? ねえ、希美、あんたってそんなに薄情な子だったっけ。
 目を閉じて右手を額にあてた。左の掌は無意識にバスタオルで隠された胸のふくらみを撫でている。
 「どうしたらいいんだろう……」
 ここまで彼を想うのに、結論を出すのになぜためらうの。おそらくもう答えは決まっている。その言葉も、喉元まで出かかっている。自分の気持ちを確かめる前から、その言葉はずっとそこに巣喰っていたような気がする。諾か否か。それでもなおためらうのは、いままで漠然としか考えていなかった未来が途端に現実のものとなり、陰影を伴って自分の前に立ち現れたからだろう。不意に現れた未来に、足がすくんだのかもしれなかった。
 (「愛してる、希美ちゃん」電話の向こうにいる彼の声が、はっきりとわかるほど震えていた。「僕と一緒になってほしい」
 「……約束はできないよ、ごめんなさい」うれしさととまどいに惑乱し、とっさに口をついて出た言葉が、彼女の頭の中で途切れることなく繰り返された)
 今日は返事の日。きっと彼はもう電車に乗って、湯河原あたりにいるだろうか。時間ばかりが過ぎてゆく。悩みはまったく以て解決しない。ケ・セラ・セラ――ああ、本当にそうならいいのにね。
 自分の気持ちなんて、考えれば考えるほどわからなくなるよ。付き合い始めて四ヶ月。それに私、まだ十七歳だよ。それなのにプロポーズなんて、白井さん、早過ぎやしませんか。そんなに慌てなくても、私は白井さんしか見ていないのに……。
 溜め息をついて寝返りを打った。その拍子にバスタオルの結び目がほどけ、胸や下腹部、背中や臀部が露わになった。それを隠すこともなく(いったい誰が見るっていうの。この家にいるのは私一人だけ)、希美は目蓋を閉じた。
 好きだけど、将来のことまで決められない。
 「そうだよね。まだ十七歳だもんね」
 耳許で母の声がした。希美は目を見開いて上半身を起こすと、バスタオルの端を掴んで乳房まで引きあげ、寝室の四囲を見渡した。母の姿はなかった。しかし、気配は感じられる。
 「……ママ、どこにいるの?」□

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