第2449日目 〈『ザ・ライジング』第3章 5/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 「あ、あの……白井さん」
 すぐそばで自分を呼ぶ声がした。
 来てくれた? 唾を呑みこむ音が耳に届いた。心臓の鼓動も聞こえる、早鐘のように脈打つその音までもが。本当に彼女なんだろうか。ポケットの中の手が握り拳を作っている。妄想でもなんでもなく、彼女がいま、僕のそばに立っている?
 白井はゆっくりと振り向いた。それが幻だったら、振り向く間に消えるだろう。上目遣いで自分を見つめる少女の姿が、徐々に視界へ映りこんでくる。だがな、目に見えるものがすべて真実というわけじゃないぞ、これまでの人生で散々思い知らされてきたはずじゃないか? さりとて、いま目の前にいる、生まれて初めて心の底から、自信を持って「愛している」と胸を張って世界にそう叫び得る女性が、自分の妄想の産物だとは思えなかった。そう、確かに彼女は自分の前にいる。幻ではない。妄想でもない。現実だ。
 「白井さん?」
 小首を傾げて希美はそう呼びかけた。ライト・ブラウンのハーフコートを着た希美は白井の顔を覗きこんだ。「遅くなってごめんなさい」とやや神妙そうな面持ちで。
 「い、いや。ぜんぜん待ってないよ」
 ちぐはぐな会話とすぐに気づいた白井は、気まずさを感じて希美を見やった。視線が合って思わず笑みがこぼれた。つられたように希美もほほえんだ。
 「行きましょう。ずっとここで立ち話をするんじゃないでしょう?」
 白井のコートの袖をつまんで促した。白井は「そうだね」と頷くとコートの内ポケットから財布を出した。着いてすぐに買った横浜フリー切符一人分を、希美に手渡す。それを見た希美は彼のいわんとすることを察して頭を振り、トートバッグの中の財布を探しかけた。それは白井に制された。
 「今日は僕が払うよ。負担する必要はない。それに見合う以上の決断を君はしてくれたんだから」
 「でも……」
 「いや、いいんだ。今日だけでもいいからこうさせてほしい。希美ちゃんのために、ね?」
 希美は頬を赤らめて頷いた。
 あたりの雑踏が再び聞こえ始め、時間は動き始めた。たたずむ二人に視線を投げかけ、人々は通り過ぎてゆく。
 「行こう」希美の肩に掌を置いて白井はいった。希美は普段の明るい声で返事した。そこには希望がこめられている、と白井は思った。
 二人は肩を並べて歩き出し、改札を通り抜けた。

 東海道本線の東京方面のホームには、北からの風が強く吹きつけていた。富士山を越えて愛鷹山を抜けてきた風だった。コートの襟を立てて首をすくめている若い女性が一人いた。タバコを吸おうとパックから出した一本が、風にさらわれて線路へ落ちた。彼女は苦い顔でそれを見送り、風に背を向けて新しいタバコに火をつけた。煙を吐き出すその顔は幸せそうだった。学生とおぼしきジーンズ姿の青年が、鞄からハードカバーの分厚い本を取り出した。本を開いてみたはいいものの風に頁があおられて、とてもではないが読める様子ではなさそうだった。おまけに、目にゴミが入ったらしい。本を小脇にはさんで眼鏡をはずし、しょぼつく目をこすっていた。
 希美は風に嬲られて、たたらを踏んで白井にぶつかった。「階段にいた方がよさそう」
 うん、と白井は答えた。希美の小さな手を取り、階段へ戻った。
 なかなか会話は進まない。なにかを喋ろうとしても、同時に口を開くため互いに遠慮してしまい、そのまま押し黙ってしまうばかりで。風の音が白井と希美の耳についた。
 「……ありがとう」と白井はいった。
 「え?」希美は隣に立つ白井を見あげた。「あ、う、うん。迷ったけど……」
 「期待して――いいのかな?」声のわずかな震えを、白井は自分で感じていた。落ち着かない気分が襲いかかってくる。彼は希美の返事を待った。
 「うん。ただ、ちゃんとした返事は今日が終わるまで待ってほしいの。――だめ?」
 ああ、そうか、と白井は納得した。彼女は軽はずみな気持ちでここへ来たわけじゃないぞ。いろいろと考え、悩んだんだ。不安もあったのに、それでも来てくれた。そう思うとたまらなく希美が愛おしくてたまらなくなった。そして、自分の選択は正しかった、とうぬぼれた。教育実習で連れてゆかれた教室で彼女と出逢ったのを運命と呼ぶならば、僕と彼女が結ばれるのもまた運命ではないだろうか? でも、まだ未来は決まったわけではない。いま彼女はなんといっただろう。今日一日を終えない限り、彼女の気持ちが定まりはしない。その事実に白井は少し打ちのめされた。しかしいま希美が抱えるのはプロポーズの返事だった。ならば、と彼は考えた。少しでも時間が欲しいと言外に求めてくるのは道理じゃないか? ちゃんとした返事は待ってほしい。
 「うん、わかった。いいよ。希美ちゃんがそれで諾否を出せるならね」
 だくひ? 教育実習中に何度か見た、口をすぼめて小首を傾げ、疑問の色を瞳に湛える希美の〈それ、なあに?〉という表情が顔に浮かんだ。く、くう、たまんねえ! 白井は気づかれぬよう、心の中で悶絶した。かわいいぜ! だが、そんなことはおくびにも出さない。その代わり、つとめて冷静に「イエスかノーか、ってことだよ」と教え、少女の理解を助けた。
 合点した様子で希美は頷き、「ありがとう」と答えた。
 その言葉が果たしてどちらの自分の発言に対するものだったのか、ひとしきり彼は悩んだが、希美を見ているとどちらでもいいような気がしてきた。自分でも意識しないまま、白井は希美を抱き寄せた。
 ホームに流れるアナウンスが、もうすぐ東京行きの電車が到着すると告げている。□

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。