第2450日目 〈『ザ・ライジング』第3章 6/28〉 [小説 ザ・ライジング]

 起きてぼんやりしていたら、無性に想い人に会いたくなった。池本は朝食もそこそこにすませて小田原に向かい、彼が住むアパートのそばにある天神社で車を停めた。待つことしばし。やがて白井正樹が足取り軽く姿を見せた。こちらにやってこようとしている。彼女は車から降りて神社の境内に姿を隠して、近づいてくる男を見つめた。歩きながら時計を何度か確認したところから察するに、どうやら人と会う約束をしているようだった。それが誰なのか、と考える間もなく、白井は池本の車の脇を過ぎ、彼女がいるすぐそばを通り過ぎて、駅の方へ向かっていった。木陰から道路へ歩を進めると池本は車の鍵をかけ、離れたところから白井の後をつけた。
 駅の改札をくぐった彼が、電光掲示板に目をやり静岡方面のホームへ降りてゆく。駅に来るなら普段はバスを使うのに、いったいなんで今日はずっと歩いたんだろう。頭の片隅にそんな疑問を残しながら、池本は彼の姿が階段の下にないのを確かめると、あまり派手な足音を立てないように一段一段踏みしめて降りた。目的の男は少し離れたベンチに腰掛けて、しばらく視点の定まらぬ様子で前を見つめ、おもむろにコートのポケットから文庫を取り出して読み耽った。
 ああ、やっぱりすてきだな、と池本は思った。この人こそ、私の救世主となる男だ、と勝手な確信を抱いて頷いた。あまり見つめていると視線を感じてしまうかも。そうなれば自分がいるのもばれるだろうから、仕方なく彼を視界からはずした。他人の風を装って彼の坐るベンチの後ろを歩き、数メートル先の柱に背中をもたれさせた。読むものも聴くものもない。これだけは失敗だったなあ、と池本は苦笑した。が、幸いというべきか、携帯電話を持っていた。深みにはまっているわけでないが、彼女にも何人かのメル友がいた。どれも六本木で働いていた頃の同僚か客だった。メールが二通、未開封であるのに気がついた。開くと月に一度のSMパーティーのお誘いと、出会い系サイトの勧誘メールだった。後者は開かずに速攻で削除、前者は暇なせいもあってじっくり読み、気がつくと返信していた。電車の中で、ふいに彼女は気がついた。あの子とデートなんだ、と。
 改札はくぐらず、精算機のそばからじっと彼を監視した。何十分も待った後、ようやく深町希美が姿を現した。途端、憎悪の炎が自分の中で燃え立つのを感じた。邪魔なんだよ!そう大声でいうだけでは物足りない。必ずお前を奈落の底にたたき落としてやるからな。改めて彼女は計画を練り始めた。本当ならもう少し穏便に、深町希美を彼の人生から排除しようと、あれから折々考えていた。改札を通るときに聞こえた二人の話し声で目的地が横浜と知ると、先にホームへ行って吹きつける風の中を電車が来るのを待った。階段を数段降りたところにいる二人を視界の端で見ているうち、もう少し穏健に、という池本の考えは霧消した。白井が希美を抱き寄せた。愛しの人が自分からあのガキを! はらわたが煮えくり返る思いだった。そこに電車が来た。池本は白井と背中合わせに坐った。そうすることで白井がとても近い存在になったような気がするからだ。それにここにいれば、あの二人がどんな会話をしているか、ある程度まではわかる。
 昨夜ほとんど眠っていなかったせいか、三島駅に着くころには早くも眠気が襲ってきた。それでもまわりの風景に視線を散らして、なんとか寝るのだけは我慢できたが、そろそろそれは限界に近づいてきていた。どこに行くのか、どこで降りるのか。まだ二人の会話から情報は得られていない。
 三人を乗せた東海道本線は山間を走り、函南を過ぎると丹那トンネルに入った。
 憎々しい深町希美の、か細い声が背後から聞こえた。「付き合い始めて四ヶ月になるのよね」と。□

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