第2760日目 〈病床の読書〉 [日々の思い・独り言]

読書がはかどる!//さすが、読書スポットとしても名高い…//病床!!!! ──20冊目「町田さわ子のいない日」 『バーナード嬢曰く。』第2巻 P51 2015,8 一迅社

 ちょっとタチの悪い風にやられて本ブログを一旦休止、けっきょく11日間床へ臥せっておった。熱は数日で下がりはしたものの、咳と口腔の痛みはまるで治まらず、それだけの日数を臥す羽目となった。
 熱が下がって微熱を維持し始めると、途端暇になった。不断に襲ってくる咳に悩まされること頻々なれど、意識ははっきりしており、ずっと体を横にしているせいもあり時間の経つのが遅く感じられる。ならばこの状況を最大限に、そうして有益に活かすべく、できることはたった一つ──読書だ。斯くして床に就いて3,4日過ぎた頃から、<病床での読書>は開始されたのだった。
 が、挫折の機会はすぐに来た。罹患とほぼ同じタイミングで読み始めていた、太宰治『二十世紀旗手』(新潮文庫)。冒頭の「狂言の神」がちょうど読み挿したままだったので、こちらにまずは手を着けた──そうして早々に抛った。しつこく続く微熱に集中力を妨げられただけでない。なによりもこの短編、病床で読むにはまったく似合わぬのだ。
 ご存知の方も居られようがこの「狂言の神」、要するに自殺に失敗するお話なのである。こんなもの、読んじゃあアカンですよ、床へ臥せっているときに。心を暗くするものを読んで平然としていられるのは、肉体と魂が健康で抗体がしっかり働いてくれているときだけですよ。まァ精々が中期の作物ぐらいか、病床でも読める太宰治の小説は(モチロン個人差ガアリマス)。
 斯くして早々にフィクションを見切って次に狙い定めたのは、伝記や回想録、歴史書であった。先般の大掃除のお陰でほぼ16年ぶりに書架へ並べ得た本のなかから、弘文荘主人・反町茂雄『日本の古典籍』(八木書店)を久しぶりに読んだら、とても面白かった。時に無味乾燥、埃をかぶった湿っぽい和書──わが国の古典籍の魅力やふしぎ、奥深さ、良縁奇縁を語らせてこの人以上の好役はない。やはり商人として1冊1冊、1巻1巻、1枚1枚を直接手にして吟味研究、手ぐすね引いて良品を購い求めんとするコレクター相手に詳細な書誌情報を書いて目録へ載せてきた反町だからこその文業。相手の購買意欲をそそらせる記事であると同時に古典籍研究の基礎データを遺漏なく精確に調査・執筆すること、そのための資料や参考文献が手許にあっていつでも閲覧できるという強み、加えて著者が幼少時より種々の書物を読み散らしてそれを自らの糧としてきたその精華を、反町が書き残した数々の文章に認めるのは極めて容易なことだろう。
 さておき『日本の古典籍』を皮切りに、いずれも再読となるが、『一古書肆の思い出』全5巻(平凡社)と『定本 天理図書館の善本稀書』(八木書店)を、起きている間は何度も姿勢を変えつつ愉しく読んだ。偶さか『日本古典文学大辞典 簡約版』(岩波書店)や『古典籍展観大入札会目録』(東京古典会)、藤井隆『日本古典書誌学総説』(和泉書院)へ寄り道したのは必然とはいえ、内緒である。いずれ『思い出』と『善本稀書』に関しては感想の筆を執ろう。
 他に読んだのは、加藤守雄『折口信夫伝』(角川書店)と鎗田清太郎『角川源義とその時代』(同)、上笙一郎『文化学院児童文学史 稿』(社会思想社)、大瀧啓裕『翻訳家の蔵書』(東京創元社)太田省一『中居正広という生き方』(青弓社)、等々。まだ数冊の漏れがあるが、面倒なので省く。
 われながら面白く思うたのは、小説の読めなさ加減である。原因のよくわからぬ事象ゆえ、今後も考えを深めてゆきたいが、今回に限れば太宰以外にも挑戦した(というてよいのか)作家はあったのだ。いちいち列挙する愚は控える。手当たり次第に読み散らしたけれど、いずれもダメ。洋の東西過去現代、どれもこれも。10ページも読んでいると集中力が途切れて睡魔が襲ってくる。──そうしてそれに負けた。
 実は面白く思うたのはこの点に限らぬ。ここに唯一の例外が存在したのである(意外ではあるまい、常にこのような法則は働く)。松本清張だ。以前からまとめて読むつもりで何冊か、買って積んでいたが、トイレの帰りに目についた山のいちばんてっぺんにあった『或る「小倉日記」伝』(新潮文庫)を持ってベッドへ戻り、ページを開いたところ……心うばわれて読み耽ったのである。舐めるように読み、太宰とはまた異質の語りの巧みさに感嘆、無名人の生涯を個々の出来事に絡めて豊かな筆致で描き出す手腕と切り口に唸らされた。……実際のところ、床上げの日にはそれは読了し、これまた買いこんであった『西郷札』(同)へと進んで半分程度を消化したところである。
 この先、自分がどれだけの清張作品を読むかは見当が付かない。もし嵌まることがあるにせよ、せめてそれはダブル・デー、即ち太宰治とドストエフスキーに於ける<第二次読書マラソン>を完了させたあとにしたいのだが、さりながら此度の病床にて唯一受け付けられた小説の書き手が松本清張であった、という動かし難き事実については、これからも然るべき考察を加える必要があろう。
 暇潰し目的で始まった病床の読書が、済んでみたら他日のエッセイのネタが幾つも出来ていたことに、われながらびっくりしています、というお話でした。◆

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