第2772日目 〈田山花袋は読まれているのか?〉 [日々の思い・独り言]

 三浦しをんは高校時代、国語の授業で田山花袋「蒲団」を読んだ折、教室中が一斉に騒々しくなった旨エッセイのなかで回顧している。ラストシーンに触れての言であるが、同じ市内の高校に、然程変わらぬ時期に高校時代を過ごしているにもかかわらず、わたくしは高校時代に教科書で花袋を読んだ記憶がまったくない。学校で使用する教科書は異なるから、当たり前といえば当たり前の話だが。
 はじめて花袋の小説に触れたのは進学した後、近代文学の講義に於いてである。「蒲団」の展開や結びに納得するところ多かったわたくしだが、教室の後ろの方に坐る女性たちはそうでもなかった様子。汚いものに触れるか目撃したかのような、そんな声にならぬ悲鳴がかすかに聞こえてきたのを、いまでもよく覚えている。
 が、わたくしは田山花袋に非道く惹かれるところがあったのだ。おそらく<地縁>がいちばん作用したと思しい。そうして……こうもあけすけに自らの恋情や欲望を綴り、或る意味で何物にも囚われぬ自由な行動を主人公/語り手が発揮する小説へお目に掛かったことなんて、これまでなかったものね。これを契機にわたくしはしばらく自然主義文学へどっぷりと嵌まりこむのだが、二十歳前後の頃程自然主義文学へ心惹かれて読み耽るにふさわしい年齢が、他にあると思うかい?
 「近代文学が好きです」というと当然、次は「誰が好き?」と質問が来る。「鏡花と荷風と谷崎と秋江と、漱石と露伴と春夫と太宰と……」なんてずらずら挙げてゆく最後に、「あと忘れちゃいけないのが、花袋っすね」というと、割合高い頻度でずっこけられるか、「どこがいいの!?」と追及される。もう馴れましたけれどね。
 あの、皆ね、「蒲団」のイメージに囚われすぎ。たしかに、「蒲団」はややアレなお話だ。その見方を否定する気はないが、物語の流れを追って、語り手の心情等汲みながら読んでくれば、最後の展開は至極真っ当な帰結といえる。煽情的な部分だけ切り出して伝播する愚かさを、世間の「蒲団」観にわたくしは見るのだ──。
 しかし、そうした人々は果たして花袋の代表作たる、向学心に満ちた青年が田舎に埋もれてゆく様を描ききった『田舎教師』を読んでいるか。叔父一家をモデルにした家庭小説『時は過ぎゆく』はどうか。健脚で知られた花袋の面目躍如といえる数々の紀行文や『温泉めぐり』、或いは大正年間の東京ガイド『東京近郊 一日の行楽』(※)をいちどでも読んだことはあるか。幼き頃を語り、その後の東京生活を綴った随筆『東京の三十年』はどうだ。関東大震災後の東京をルポした『東京震災記』は読んだか。児童文学の小さな傑作というも過言ではない『小さな鳩』を知っているか。脱走した一兵士が捕らえられて銃殺されるまでを描いた『一兵卒の銃殺』はどうだ。「蒲団」1作でゆめ断ずるべからず。
 ちなみに文庫化されているものだけをここでは挙げたつもりだが、「数々の紀行文」と『小さな鳩』は単行本や復刻版となることをお断りしておく。
 取り敢えず文庫で読める作品は──直近の収穫は、行きつけになった古本屋の棚で偶然発見して衝動買いした『近代の小説』と『野の花・春潮』(角川文庫)である。幾らでお買いあげ? そんなの告白できません──一通り読んでしまったかな、と思うている現在、すこしばかり収納スペースの生まれた書棚を見て企むのが、『田山花袋全集』のお迎えであるのはおおよそ見当の付いている読者諸兄も居られよう。それは正解なのだ、が……! 他の文学者のように新しい全集が出ているわけではなし。現在ある全集は戦前、昭和11/1936年から翌12/37年に内外書籍から刊行された全集全16巻を、文泉堂書店が昭和48/1973年から翌49/74年にかけて復刻・刊行した際「別巻」を新たに加えたものなのだ。読むには構わないのだが、書誌や校訂の点にどこまで信用を置いてよい代物なのか、不安で仕方ないのである。
 近代文学で最も愛するは鏡花に荷風、太宰と花袋、となるが、殊花袋については未だまともな文章を書き得ておらぬため(精々が過去に『温泉めぐり』の感想があったぐらいか)、太宰や鏡花と同じように書いてみるつもりだが、正直なところ田山花袋の作物を読まずして過ごすこと幾年になるか。その日に備えてあちこちに散らばった花袋の文庫と復刻版をまとめて積みあげ、数日読み耽ってみるところから始めるか。◆

※『東京近郊 一日の行楽』(大正12/1923年 博文館)と『東京の近郊』(大正5/1916年 実業之日本社)から東京にまつわる文章を抄出して、現代教養文庫から平成3/1991年に刊行された1冊である。□

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