第2773日目 〈渡部昇一の著書からは知的刺激をたくさんもらった。〉 [日々の思い・独り言]

 高校生の頃から渡部昇一の著書に親しむと雖も歴史や日本人論にはどうも付いてゆくことできぬ部分多々あり、その方面に関してはけっして模範的読者とは言い難い。壮年期に著した画期的史論『日本史から見た日本人』(祥伝社 古代編・鎌倉編・昭和編:1989/5)と、晩年の『渡部昇一の少年日本史 日本人にしか見えない虹を見る』(致知出版社 2017/4)は何度も読み返して都度新たな感銘を受け、よくぞ書いてくれたものだ、と感謝さえしているのだが、……。
 ところで渡部昇一の本を読んで紹介されている著述家や小説へ興味を持ち、実際に読んでみたところすっかり虜になってしまった最右翼は、佐々木邦と幸田露伴、そうして徳富蘇峰という面子になる。
 幸田露伴は岩波文庫の『努力論』に始まり、幻想文学方面からのアプローチが同時期にあったせいで「幻談」を読んで腰を抜かし、続いて谷沢永一との対談本で露伴全集架蔵の夢を抱いたものの叶わず図書館で借り出すことを長く行っている。
 佐々木邦はたまたま父の書棚にあった講談社少年文庫の『苦心の学友』を読んで「ン、これは面白いぞ。ぜったい自分好みの作家に違いない」と合点してあちこちの古本屋を探し歩いて、だんだんと点数を増やしていった。どれもこれも裏切られることなく、その健全な道徳観と明朗なユーモアは、時に<黄金のワンパターン>とさえ感じるけれどそれが逆に妙に心地よく、却って絶対的安心を佐々木邦に抱くことになったっけ。
 徳富蘇峰についてはいまに至るも専ら『近世日本国民史』の読者でしかなく、それも講談社学術文庫版でしか読んだことがない、と来れば語るに資格なしかもしれぬが、渡部が晩年に一条真也を相手に対談した『永遠の知的生活』のなかで、学術文庫版には朝鮮出兵の巻が未収録であることを教えられて(P36 実業之日本社 平成26/2014・12)、「仕方ない、多少の値が張ろうとも元版を買おう」と決意(?)せざるを得なくなり……全100巻あるそうですが……いやぁ、道はとっても遠いであります。
 高校時代から始まって、そうね、いちばん頻繁に読み耽って影響を受け続けたのは20代後半までかしら。正直なところ、実社会に出て自分のスタンスが社内で築けて、だんだんと日々の生活がルーチンになって来る頃までは、渡部昇一の本はどれもこれも読むのが苦痛だった。理由? 自分でお考えなさいな。優しくないか、なんというか、実社会を見聞するだけの人がなにをいうているのか、という一種の反感、かなぁ。うまくいえないけれど。
 まぁ、そんな徒し事はともかく。
 ちかごろも渡部昇一が取り挙げていた小説に(本格的な)興味を抱いて図書館で全集を借りたり、八重洲ブックセンターで買ったりした本が、幾冊か。ちなみに図書館で借りた小説はその後、ヤフオク! で文庫版を落札した。順番に申し述べれば、伊藤整『氾濫』(新潮社→新潮文庫)と『潤一郎ラビリンスⅢ 自画像』(中公文庫)である。
 前者は不断の知的活動の集積がどのような効果を生むことにあるか、その例として挙げられた(『知的生活の方法』P124-7 講談社現代新書 1976/4)。後者はプラトン思想を谷崎が真に理解して咀嚼していたかの例として(『発想法』P59-62 講談社現代新書)。
 わたくしは本稿でこれらの紹介を行うために筆を執っているのでは、実はない。或る本を読んで別の本に繫がる、広がってゆくきっかけの大切さを、お伝えしたいだけである。
 書評は本の紹介のためにあるのではない。読者にその本を読ませる、買わせることを目的とする。横暴な言い方だろうか。もし、書評の究極目標はそこにはない、という向きがあれば是非名乗り出ていただきたい。お話ししよう。
 その役目を果たすのは本来書評であろうが、ご承知のように本の紹介はなにも書評でのみされるものではない。教養書や実用書(と称して果たしてよいものか)で取り挙げられる本についてもいえる。勿論、唯の書名や作者の羅列が読み手を唆すことは、まずない。肝心なのは、どのような視点で取り挙げられたか、では?
 前述の『氾濫』であれば主人公の1人、町工場の技師である真田は戦前から接着剤に興味を持ち、自分でもデータの収集とカードへの記入に余念がない。戦中の苦しいときでも国内外の文献に載る研究結果が出ているとそれをカードに書き写していた。そうしてそれを基に、小さな実験を繰り返して、とにかく戦前戦中を過ごした。戦後になって友人から、海外の研究者が行っている推計学というのを教えられるや、「いままでのデータの推計学的な処理をやり、いろいろな接着剤の性質を数式で示すことに成功した」(P126)のだ。それが外国でも認められると、真田は工場の技師長を務めながら会社の要職にも就く。
 カード・システムの効用について触れた箇所だったことから渡部は、真田がコツコツと自分の興味ある分野のデータをカードに書いて、それが結果として大きな業績となった点を取り挙げたのだが、この箇所が、はじめて読んだときから30年に渡って頭の片隅に引っ掛かっていた。漠然と研究職に就けたらいいいなぁ、とぼんやりと考えている自分の読書であったから尚更であったかもしれない。
 いまになってようやっと『氾濫』を読んでみる気になったのは、単にその気になったから、というばかりでなく、ちかごろのわたくしが再び渡部昇一の本をまとめて読み耽る機会を作って実行し、加えてこれまでダンボール箱のなかに眠っていた古典文学や近代文学のテキストや研究書を大量に書架へ並べられるようになったからだろう。まぁ平たくいえば、自分の内に再び<研究>の火が揺らめきはじめたのだね。
 それが長年引っ掛かり続けていた記憶と融合したタイミングで図書館へ探している別の文献探して訪れた際、それが思い出されて検索してみたら、書庫に全集や文庫が架蔵されていることが判明、勇んで借り出して読み耽り、自分の手許にも置いておきたくなるぐらいのお気に入りとなった──。
 これの新潮文庫版は昭和36/1961年7月初版、昭和51/1976年8月26刷となっている。当然活字は小さいがかすれたり潰れたりしていない点が幸いで、つい先日も3度目の読み返しを行ったばかり。いまの時点では鍾愛の書、握玩の書とまではならないが、かつて研究者を目指して文献資料のデータや論文のヒントとなるようなメモ・アイデア、在野の国文学者/民俗学者の著述目録をカードに写したり書きこんで増えてゆくのを幸福と思うていた自分には、これ程共感と羨望を覚える小説もそうあるまい、と思うておるのだ。渡部昇一の本を読んでいなかったら、ぜったいに出会うこともなかった小説であったよ、この『氾濫』は。
 斯様に、先人の著書で名前を取り挙げられる著述家や著書に読者がなにかを感じて、手を伸ばすには、自分に興味あるテーマや視点、角度からアプローチされていることが必要なわけだし、或る意味で奇跡に近い遭遇となるが、それを果たした者のその後の読書に於ける幸福度はきっと計り知れないものがあるに相違ない。
 わたくしの場合、他の誰よりも渡部昇一の著書はそうした幸福を、幾人もの著述家に於いて実感させてくれた、そんじょそこらの書評や教養書の類よりも、ずっと益多くいまなおその恩恵を被っている恩書である。
 ……いま何冊か、書架から持ってきたのだが、特に『発想法』からは多大な導きを得ておりますな。鴎外と逍遙の論争から森鴎外の(「舞姫」や「山椒大夫」など以外の)著作を読み、吉川幸次郎や福原麟太郎、内藤湖南の著書を古本屋で漁るようになり、原勝郎『日本中世史』を捜し歩くようになった。正直なことを申しますと、ここまでさせる本の著者をわたくしはこの人以外に知ったことがありません。そんな人がもうこの世に亡いことを、つくづく残念に思います。そうしていまの人たちが書くものの過半に知的刺激を受けられぬのを、同じように。◆

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