第2808日目 〈後悔するぐらいなら、まず行動しよう。行動してから後悔しよう。〉 [日々の思い・独り言]

 今年最後の図書館行き、今年最後の書店での買い物、今年最後のラーメン屋、と最後尽くしの師走廿八日宵。今年最後のスターバックスにてコーヒーを飲みながら、『雅文小説集』と太宰治『もの思う葦』を読んだ。
 さんざん「今年最後」というたはよいが、じつは歳末といいう意識がまったくない。会社人はただいまちょっと休業中、為に忘年会も仕事納めもないが原因と思われる。すっかりサラリーマン生活が骨の髄まで染みこんでいる身に、この状況はかなり辛い。会社のお金でお酒が呑めぬとは……! というのは冗談としても、1年のケジメ、区切りの行事を経験できないのは、やっぱり世間から取り残された感を強く抱くのである。
 今上天皇の代替わりと改元、即位の諸儀式が立てつづけに行われた今年、平成31/令和元年、その後半は部屋の掃除と本・CDの選別処分に明け暮れた。おかげさまで架蔵する本と音盤の殆どを見渡すことができ、また改めて国文学と折口信夫・加藤守雄研究へ気持ちが立ち帰ったことで、<失われた20年>の重さと前後の断絶を突きつけられた後半でもあった。
 が、恩恵というべきか、それらの本をふたたび外気に曝したことで、書いておきたい材料が幾らも見附かった。クリスティの逸話の1つに、お風呂にはいって林檎をかじっているとき、小説のアイデアが浮かぶ、というのがある。それにあやかればわたくしは、「アイス食べたい……」と床の上をごろごろしながらおねだりする瞬間ではけっしてなく、……やっぱりお風呂でのんびりしているときか、その日のブログの話題、その端緒を摑むのは(けっこう出たとこ勝負なところがある。反省すべきだろうか?)。
 ふとした思い付きがわずかの時間で大まかとはいえ形を成し、記憶を頼りにあたった文献がドンピシャでかつ必要箇所へすぐにアクセスできるのは、むかしの記憶とカンに助けられている部分が相当大きい。ちかごろ国文学や研究者たちに因んだエッセイを、折節本ブログにてお披露目しているのはたぶん、専門書の相次ぐ発掘と整理が根っこにあってこそのことかもしれない。いつに変わることなく平均2時間で1本を書きあげられているのは、記憶(蓄積)のおかげ、本があるてふ自信のおかげ、というより他にない。
 今日新刊書店で購った本の1つは、予約注文していた善渡爾宗衛・杉山淳編『荷風を盗んだ男 ──「猪場毅」という波紋』(幻戯書房)である。荷風「来訪者」のもう1人のモデル、猪場毅と春本『四畳半襖の下張』をめぐる、いわば関係各位の証言集だが、このような本へ接するに及び自分のなかに一種の焦燥感が生まれているのを、最後に告白しておきたい。
 もしかするとわたくしが来年実現すべき自著とは、聖書各巻の<前夜>にエッセイを加えた1冊ではなく、積年の宿願である加藤守雄著作集・著作目録の編集・解説なのではあるまいか。全3巻別巻1、限定100部ぐらいで、寄贈先は選定済み。
 ちかごろ信長伝で専らおなじみな幸若舞「敦盛」の一節が、つくづく身に応える。人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢まぼろしの如くなり。◆

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