第2910日目 〈ドストエフスキー『二重人格』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 『二重人格』(小沼文彦・訳 岩波文庫)は面白い。
 始まってしばらくは、主人公の(旧)ゴリャートキンの粘ついた喋り独白にイライラさせられ、なんど中断を検討したことか。<第二次ドストエフスキー読書マラソン>なんて<枷>がなければ、(経験したこともないような)苦痛と忍耐ばかりの読書に音をあげていただろう。
 が、或る日或る時、前に進むことだけ考えてページを繰っていた指が、これまでにない早さで、軽やかさで、動き始めたのだ。これといって興味を掻き立てられる場面であったわけではない。単に作品のペース等に自分の感覚が馴染んだだけなのかもしれない。突然目の前が、パーッ、と広がり、自分が彩りあざやかで豊かな実りをもたらす沃野の縁に経っていることに気が付いたのだ。
 むろん、以後もジリジリイライラさせられる瞬間は訪れる。それは否定しない。だって事実だもん。が、そのときは既に作品の面白さに捕らわれて、ページを繰る手も早くなっている。読書に費やす時間は同じであっても、その面白さに開眼する前と後とではクオリティがまるで違う。
 では、その分岐点はどこであったか? 第5〜6章である。老五等官オルスーフィ・イワーノヴィッチ宅の宴会から諸事あって追い出された主人公、フルネームをヤーコブ・ペトローヴィッチ・ゴリャートキンが吹雪のペテルブルクをとぼとぼ歩いているとき、自分の分身とすれ違って、思わずそのあとを追いかける。そいつが入っていった家はまさしく、この九等官ヤーコブ・ペトローヴィッチ・ゴリャートキンの住居。慌てて入ってゆき、扉を開けるとそこにはベッドに腰をおろしてこちらを見やる分身、新ゴリャートキンの姿が。この翌日かれらは睦まじくいろいろ語り合うのだがこの<ウィリアム・ウィルソン>的な、戦慄的な状況にゾワリとさせられるのだけれど、ドストエフスキーが書くとこの状況もまるでスラップスティック・コメディに思えてきてしまう。やはり──すくなくとも流刑経験以前のドストエフスキーは本質的にユーモア作家だった。
 そうして、格段に読むスピードが速くなり始めたのは、第8章、137ページから(遅い!)。新ゴリャートキンがいよいよ本領を発揮し始めたあたりの章である。役所の上司に取り入り気に入られ、重用されている分身──新ゴリャートキン──に焦りと嫉妬を抱いた旧ゴリャートキンの右往左往と、いやらしいまでのへつらいがあまりに滑稽に感じられて、それまで抱いていた“われらの主人公”への悪感情を一気に払拭して興味と共感へと舵を切らせたのである。
 これは序盤の話であるが、中盤終盤にも勿論、同様な見せ場──読みドコロがある。
 そうね、たとえば第9章。
 或る理由から駆けこんだレストランにてピロシキを1個食べただけなのに、なぜか11個分の代金を請求されて途方に暮れてしまう旧ゴリャートキン。どうしたわけか、とあたりを見回すと案の定そこには新ゴリャートキンがいて、かれが食べたピロシキ10個分の代金が自分に請求されていることに思い至った旧ゴリャートキンの台詞がふるっている。曰く、──
 「人間、腹がへってりゃ肉饅頭の十一ぐらいは食べることもあるだろうさ。そうとも、黙って勝手に食べさしておけばいいんだ。なにも驚くことはありはしない、なにも笑うことはないじゃないか……」(P174)
 笑うよ、どう考えたって! 腹ぺこならたしかに肉饅頭(ピロシキ)を幾つも胃袋に収めるだろうけれど、11個は流石にどうかと思うぜ、ゴリャートキン!
 或いはそうね、第11章。
 新ゴリャートキンとの会談が大いなる侮辱の内に幕を閉じたあと、遅れてやって来た憤怒に突き動かされて、かれの乗る辻馬車に飛びかかってインディ・ジョーンズばりのアクションを繰り広げる場面(『最後の聖戦』でナチス・ドイツの戦車相手に大立ち回りを演じるインディの姿をご想像あれ)。ここはおそらくドストエフスキーが書き得た数々の要素を含んだ場面のなかでも屈指のアクション・シーンである。勿論、ここでのインディ役が旧ゴリャートキンである以上、カタストロフとまったく無縁であるのは申しあげるまでもない。
 それからそうね、予想外の同情と幸福にあふれた大団円になるかと思わせて、やはり新ゴリャートキンの暗躍、悪意、嘲笑が決定打となって破滅と喪失へ追いこまれた旧ゴリャートキンの姿に哀れを誘われる第13章、即ち終章だな。

 『分身』というタイトルの邦訳も持つ『二重人格』は、『貧しき人びと』に次ぐ第2作として1846年2月、『祖国雑記』第2号に掲載された。が、その後、作者自身によって改訂されて1866年のドストエフスキー作品集第3巻に収録。邦訳はいずれもこの改訂版に拠る。
 本作は好評だった前作に比べて酷評に曝された。やがて本作は忘れられた作品と化し、余程のドストエフスキー愛好家か、全作品の翻訳を目指す人か、わたくしのような「取り敢えず読めるものは全部、片っ端から読んでみよう」という暇人ぐらいしか顧みることがない。積極的に読者が手を伸ばす類の代物ではない。
 が、前に述べた如く辛抱して読み進めれば、途端に面白くなること請け合いだ。また、その構造、思想、語り口、主人公の性格・思想などは紛れもなくドストエフスキー独自のものだ。加えて後の重要作、就中『地下室の手記』の出現を早くも予告した作品、と見ることさえ可能だ。これをいい換えればドストエフスキーという作家が、極めて振り幅の大きい、様々なジャンルを書き分けられる才能と筆力と体力を、キャリアの最初期から既に備えていたことの証しでもある。
 ──さりながら残念に思うのは、いまもむかしも文庫で読める『二重人格』(『分身』)が岩波文庫だけという現状だ。初版が1954年、訳文に手を入れた改版の出たのが1981年となれば、表現がどうとか訳文がどうとかいう前に、活字が小さく細くなっていて、読みづらさを痛感するにはじゅうぶんだろう。
 この点を根本的に解決するためにもひとつ、岩波文庫や光文社古典新訳文庫には良き訳者を得た新訳を検討、実現していただきたい。有名作の新訳も大事だが、顧みられること少ないマイナーな作品に目立つ骨董めいた既訳の再点検も行ってほしいのだ。
 こんなに面白い小説が知られることなく日陰の身に甘んじている理由の1つは、文庫で読める翻訳が1種類だけしか存在しないからだ。各社の検討と実行を期待する。◆

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