第2911日目 〈ドストエフスキー「家主の妻」を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 第2次ドストエフスキー読書マラソンをゆるゆるのんびり進めながら、せっかく全集を手に入れたのだからこの際、そちらでしか読めない作品に触れておかないと勿体ないよね、と考え直し、『二重人格』を読み終えた2,3日後から新潮社版全集第1巻所収「家主の妻」を読んでいました。
 さて、中編「家主の妻」とはどんな小説か。先日Twitterに載せた拙文を転載しましょう。曰く、──学問に精出すストーカー、オルドゥイノフが一目惚れした女性、カチェリーナの家に間借りする。相手の過去と現在に憐憫の情を起こして恋のからまわりを演じた挙げ句に相手の夫、恐るべきムーリン老人につけ込まれて足許掬われて、アパートから追い出される話。
 初読のときは「つまらないなぁ」、「かったるいなぁ」、「冗長だなぁ、あいかわらず」なんて思い思いしながらページを繰っていたのですが、いや、ちょっと待て。自分の集中力の欠如が、斯く為さしめただけではあるまいか? そんな風に反省して再読三読、「そんなに悪い小説じゃぁない」と取り敢えずの結論を出すに至りました。勿論何度読み返してもかったるい箇所はかったるいし、鈍重な場面はひたすら忍耐ではありますが、けっして駄目な小説ではないぞ、これは。
 オルドゥイノフの人物像──夢想的直情的な性格、好きになった女のあとを追ってそこに住まいを決めてしまうぐらいに行動力がありながら実は結構な臆病者──は処女作から絶筆に至るまで、ドストエフスキーの小説では掃いて捨てる程いるお馴染みな存在です。カチェリーナへ寄すかれの想いが果たして恋愛であったのか憐愍であったか、いま一つ疑問ながら、かれの気持ちがいっこう相手に届いておらず空回りしている滑稽さは、見るに哀れ、語るに遣る背ない。
 ではその気持ちの相手、カチェリーナはどのような女性なのか、といえばこれまた摑み所のない、鵺のような輩であります。その過去がどうあれムーリン老人の操り人形、欲望の捌け口の役を甘んじて受け容れている。しかもその様子は自ら進んでその役に立候補し、そこに法悦すら感じてもはや老人から離れることができないという為体。艶と病と滅びを具現化したような女、といえば良いでしょうか。敢えて申すまでもなく所詮はオルドゥイノフに相手の務まる存在ではありません、断じて。
 三角関係を築いているようで実は三角形を構成する要素さえハナからないのが、本作の登場人物の相関関係の大きな特徴といえましょう。最初から最後までカチェリーナとムーリン老人、2人の隷属関係だけがここにあり、他は書き割りに過ぎない。辛うじて生彩のあるオルドゥイノフとて2人のまわりを指咥えながらうろうろしている小物でしかないのです。
 ムーリンこそ本作の要というてよいでしょう。このムーリンという老人、会う人会う人の精気を吸いあげ、また支配する吸血鬼のような人物です。およそドストエフスキー作品でははじめて表舞台に現れた、悪魔的造形の施された人物ですが、とはいえ後年の作品群に登場する同種の人物たちの大きさに較べると肩を並べるべくもありません。そんな意味ではその描写にまだドストエフスキーの未熟が目立ちますね。
 ペトラシェフスキー事件へ連座して流刑になる前と釈放されたあととでは、ドストエフスキーの作品は別物というてよい程の落差がある。明白な相違を様々に指摘できるぐらいです。悪魔的と呼ばれる人物の造形も、その1つ。『悪霊』のスタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフの如き強烈な印象を残す人物を生み出すには、当時のドストエフスキーはまだ経験不足だったのであります。とはいえ、ムーリン老人がかれらのプロトタイプであることに異見はないでしょう。
 されどもオルドゥイノフの前で哀れなる老人を演じたあと、カチェリーナを抱きしめてからの表情の変化には、想像するだにゾッとさせられたよ。いやぁ、老人の残忍にして狡猾なる性格を顕著に示しておりますね。うぅむ、羨ましい!!
 ──有り体にいってこの「家主の妻」、面白くはないが「つまらん」と斬って棄てる作品でもない。前回の『二重人格』のように新訳を求めるつもりはないが、新しいドストエフスキー選集が編まれるならば是非にも収録していただきたい1作(新潮社版全集の千種堅の飜訳は良いですよ)。本作は忌憚なくいえば、出来映えや訴求力などいろいろな面でどっちつかずの小説であります。が、再読三読と読み返すに従って隠れていた輝きに気附かされる、そんな不思議な魅力を持つ小説でもあるのです。
 ──さて、「家主の妻」のあとは第2巻に進んで未完の長編『ネートチカ・ネズワーノワ』を読もう、と考えていたのだが……同じ巻に収まる短編「正直な泥棒」が未読とわかったので、急遽先にこちらを片附けてしまうことにしました。よって次のドストエフスキー小説の感想文は件の短編となることを、既に告知済みな一部の方へお伝えして筆を擱きます。◆

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