第2931日目 〈短く、滋味ある文章を書き遺してゆきたい。〉 [日々の思い・独り言]

 ここ数日、短いものばかり書いています。時間的体力的精神的制約も手伝ってのことと自分では思っていますが、短い文章を書くという作業、「まとめる」という面ではなかなか難しいけれど、書き甲斐がある、挑み甲斐がある、工夫のし甲斐がある、技巧の凝らし甲斐がある。要するに、面白くて、愉しい。
 内容はともかく分量だけは結構ある文章を書き続けてきた反動か、それともただ単に飽きたのか。理由は定かにあらねど、書き始める前から「今日はこれぐらいの文字数でまとめてみよう」と考えていることが多い。
 サラリ、と或いは感情に任せて書いたように見えるものでも、お披露目へ至るまでには何度か書き直したり、棄てたりしています。1時間を費やしてたったの2,3行という日も、ある(書き悩んでボサボサの髪を指でわしゃわしゃやって、フケ撒き散らすことはない)。書いては消し、を繰り返し、本をパラパラ目繰って書き進めるための燃料調達に奔走したりもする。
 しかし、手を離れてお披露目される段階に至ると、そんな迷いや悩みを窺わせない文章に仕上がっていてほしい。理想は、秋成の『胆大小心録』かな。近現代に範を仰ぐとするなら……あれ、短くまとめられた文章で心底惚れてしまうものに出合ったこと、考えてみるとないかも。一時的に影響を受けたものなら幾らでもあるんだけれど……。価値は認められても痕跡残すぐらいに惚れこむことができないんじゃあ、無意味だものね。
 短いものは書くのが難しい。文字数の制約がなければ自由の幅は広がる。が、要旨がぼやけて腑抜けな文章になりがちだ(読者諸兄よ、この発言を深く刻め、なぜならこれは経験者からの発言だからだ。呵呵)。そんなものは、断言する、小学校で国語をちゃんとやってきたなら阿呆でも書ける。一方、短い文章を書くにはテクニックが要る。日頃から不断の読書を重ね、ボキャブラリーとエクスプレッションとレトリックの採取に余念なく、不明の事柄を調べることに倦くことなく、それをアウトプットする機会を精力的に持ち、推敲の意味を理解している書き手が、”読ませる”短い文章を書くことができるのではないか、というのがわたくしの観察結果である。そうして書かれた文章が読み手のなかにストン、と落ちて心奥に残るとき、本当の意味でその文章は生命を得る。──わたくしにはそれが理想と映る。そんな短い文章をエッセイを、わたくしは書きたい。書き遺したい。◆

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