第2992日目 〈日本史の面白さを感じさせる座右の本。〉 [日々の思い・独り言]

 とかく歴史は面白い。歴史の面白さとはなにか、といえば、そこに蠢きその日を生きた人々の姿を見ることだ。その謦咳に触れ、その行動を敬い、その信念に胸震わせることだ。そうして<時間>の無情と残酷と慈悲と平等を痛感することである。
 古来より歴史書程玉石混淆なジャンルもない。洋の東西不問で、血湧き肉躍り、時間のうねる様、人々の巻きこまれてゆく様を俯瞰して描いた歴史書が、どれだけあったというのか。もっと時間を絞ろう、それは即ち、近代以後を指す。加えて煩雑になるのでこの国の歴史書に絞る。時間の淘汰を受けたものだけが生き残る。その後、どれだけ研究が進み、かつての定説が覆されて新説に取って代わろうとも、それがどうだというのか。そこに史書の執筆に賭けた気概と情熱と信念があったならば、それはどれだけむかしに書かれたものであろうとかならず後世に発見されて、新たな読者を獲得して更なる命を得ることになろう。
 思いつくままに例を挙げる。内藤湖南『日本文化史研究』、原勝郎『日本中世史』と『日本通史』、平泉澄『物語日本史』、徳富蘇峰『近世日本国民史』、大川周明『日本二千六百年史』、ちょっと変化球になるかもしれないけれど和歌森太郎『学習漫画 日本の歴史』全18巻(集英社)、ぐらいでじゅうぶん。これまで幾つもの日本通史というべき本を読んできたけれど、今日に至るまで繰り返し巻を開いて読み耽る本といえば、いまも書架に収まるこれらだけだ。
 実はこうした通史を読むきっかけになったのは、渡部昇一の著書に触れて以後である。手始めに湖南に手を出してこれが案外と自分好みであったものだから、渡部氏が著書で触れる歴史書は片っ端から読んでみよう、と企んだ。幸いと当時のわたくしはまだ学生で(いや、そういう年齢だったんだよ?)、学舎のある場所はお茶の水の高台……つまり、本郷の古本屋も使えれば高田馬場へ足を伸ばすのも容易な地域──そうして勿論いうまでもなく、坂の下は世界最強の古本屋街たる神保町だ。つまり、足を棒にする覚悟と丹念に古本屋を覗く体力と多少の軍資金があれば、状態さえ気にしなければ上に挙げたような本は探し当てることはそれ程難しくなかったのだ。もっとも、蘇峰だけは端本で我慢しなくてはならなかったけれどね(全100巻を購入できたのは、ついこの間のことです)。
 いまも耽読する歴史書を上に挙げた。書架から引っ張り出したそれらを戯れに開いて目を通していて、いまさらながらそれらに一本筋が通っていることに気が付いた。渡部昇一も含めて上で名前を挙げた人たちのなかには和歌森太郎を除くと、当然ではあるけれど今日的意味での歴史観を持った人っていないのね(和歌森太郎は戦前から活躍していたにもかかわらずリベラルな歴史学者として知られる)。平泉澄の歴史観は皇国史観であった。
 おまけにここに名を連ねる人たちで平泉澄以外は皆、異業種出身であることが興味深い。内藤湖南はシナ学者だったし、原博士は西洋史を専門とし、渡部氏は英語学者であり、蘇峰はジャーナリストであり、大川は思想家であった。この大川周明は民間人としてただ1人、東京裁判にA級戦犯として出廷した人でもある。裁判のとき前の席に坐る東條英機の後頭部をスリッパだか素手だかで叩いて当の東條を失笑させた、というエピソードも持つ。
 座右に侍り続ける(侍らせ続ける、というのが正しいのか)日本通史の著者たちが揃ってプロパー学者ではなかったから、こんな風に時代を超えて読み継がれるような歴史書が生まれたのかもしれない。異なる視座で歴史を俯瞰するとこうなる、という……。
 さて、本来ならば渡部昇一『日本史から見た日本人 古代編』の感想文を書く予定だったが、思いの外枕に予定した部分が長くなったことで独立した稿と相成った。よって感想文については明日以後のお披露目とさせていただく(けっして「明日」といわないあたりがね)。◆

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