第2999日目 〈『伊勢物語』第4段をそっと愛す。〉 [日々の思い・独り言]

 春らしくない春である。天気のずっとぐずつき気味なるが因といえようが、大地から萌え出づるような生命のゆらめきを感じることも、心はずみ新しいなにかに胸をワクワクドキドキさせる予感の訪れも、今年はなかった。とても淋しく、生活の節目に相応しくない春。
 職場のそばに東京湾に注ぎこむ河がある。その河口付近の両岸には桜の樹が植わって例年はここの風景を写真に収める人、足を停めて魂奪われたように眺め入る人が目立つ。花散る頃になると花びらが河面を寸分の隙間なく埋めて(陳腐な表現で済まないが)ピンクの敷物と化す。
 が、今年はその河面を埋めて東京湾に流れこむ桜の花びらを見ることがなかった。桜が咲いても咲いていることに気附かぬまま散ってしまったようだ。自分は昨年と同じ自分なのに、自分のまわりの世界は無情に変化してしまって、昨年と同じなど、と一笑に付されてしまう。在原業平が廃屋となった御殿の柱に背中をあずけてこの季節、夜更けの月を見あげながら詠んだ歌が否応なく心の奥底から頭をもたげる。曰く、──
 月やあらぬ春やむかしの春ならぬ わが身一つはもとの身にして
 『伊勢物語』第4段を初出としてその後、『古今和歌集』に収められた一首である(巻15「恋歌」5/747)。
 『伊勢物語』を通して読んだのは19歳のときだった。いまは亡き恩師から土曜日の午前、学院のいちばん小さな教室で明治書院の素っ気ないテキストを一段一段、じっくりと、亀の歩みにも似たスピードで素読して先生や生徒が現代語訳して、先生が解説される、という講読スタイルの講義であった。他の学生はどうであったか定かでないが、わたくしは背筋がゾクゾクする程の興奮を覚えた。
 殊にこの第4段。極めて高貴なる女性を愛した業平が官位と命を賭けて略奪愛に踏み切った心の内を想像して憧憬にも似た想いを抱き、然るにその後は迫る権力の前に抗うことも逃亡を続けることも叶わなくなって膝を屈してかの人とは生きながらに永久の別れを余儀なくされた業平の姿にこの上なく共感した。
 それから何10年も経った令和のいま、かの貴人の哀しみと物狂ほしさと口惜しさをわが身が経験することになろうとは、流石に思わなかったけれどね。嗚呼、恩師よ、読者諸兄よ、いまならわたくしは追いつめられて思いつめた業平の心境が、よくわかります。朝目が覚めた瞬間から夜眠りに落ちるそのときまで、心のなかにいる女性がもう手の届かぬ存在になっていて、生きていると知っていながらけっして逢うことができないとは、あなた、もはや生き地獄でありますよ。来世に望みを繋ぎましょうか……逢える保証はないけれど、かならず探し出します、って。
 ──在原業平からは少し遅れて活躍した人ですが、激しい恋に生涯を送って官能的な歌を残した女性がおります。和泉式部、というのがその人の名前です。『小倉百人一首』に撰ばれた一首が、業平の歌同様わたくしを深い哀しみと絶望に誘います。曰く、──
 あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな
 藤原定家が『百人秀歌』の選定を経て編んだ『小倉百人一首』の56番目に撰ばれ、4番目の勅撰和歌集『後拾遺和歌集』(巻13「恋歌」3/763)と私家集『和泉式部集』に載る。病気でもう死を意識した詠み手がせめてもう1度あの人に逢いたい、と切々とながら、されど情念と官能の燠火を最後の気力で燃え立たせた一首であります。この歌もまた、いまのわたくしの心の代弁者のように思えてなりません。
 ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ、なんて諦念の想いで去りゆく春を感じることができる日は、いったい来るのだろうか(紀友則[三十六歌仙・『古今集』撰者・紀貫之いとこ] 古今和歌集巻2「春歌下」84/小倉百人一首33)。◆

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