第3010日目 〈昭和から平成へ。──遺言ではないけれど、これだけは話しておきたいのです。〉 [日々の思い・独り言]

 前著に引き続き渡部昇一『日本史から見た日本人・昭和編 「立憲君主国」の崩壊と繁栄の謎』(祥伝社 1989/05)を読んでいる。なかなか読み進まないのが悩みなのだが、逆にいえばそれだけ本書が取り組み甲斐ある1冊で、歯応えじゅうぶん知識の詰まった分厚い書物であることを意味する。自分の不勉強、無知も露わになって、赤面しつつ読んでいる。
 その一方で、明日から1泊2日の入院・手術だものだから、これをお伴に……とは思うているのだが、たぶん睡眠誘導剤の役目しか負わないのではないか、と内心懸念していたりね。
 人生最初の改元に接したのは勿論、昭和から平成へ。冬期合宿という名目で剣道と柔道の寒稽古をどっかの施設に寝泊まりしていた日だ。たしか大講堂のような場所に生徒全員が集められ、昭和の終わりを教官から告げられた。その重大さに感覚は鈍ったが、それでも大変なことが起こったという事実だけは脳ミソが認識した(その場で公衆電話の受話器を摑み、自宅に電話してここ数日と明日以後の新聞を棄てないでほしい、と頼んだことを覚えている)。
 遡ること約半年程前から昭和天皇の御病態の報道は連日新聞に載りニュースで流れ雑誌の記事になった。誰もが1つの時代が間もなく終焉を迎えることを、口にはしないが肌で感じていたのが、昭和63年の秋から年が変わって松の明けた昭和64年1月7日までの日本の上を覆っていた空気だったのだ。たぶんその深刻さと不安感は今日のCOVID-19と双璧をなす。1月7日に昭和天皇崩御、皇位は明仁親王(現上皇陛下)に引き継がれて、同時に小渕恵三官房長官(当時)によって新元号が「平成」と発表、翌る1989年01月08日から平成時代が幕を開ける。
 125代天皇に明仁親王が即位、美智子妃殿下が皇后となったのに伴い良子皇后は皇太后(平成12/2000年6月崩御に伴い同年7月香淳皇后と追号)となり、大喪の礼が挙行され(2月24日)、昭和天皇のご遺体を収めた霊柩は武蔵陵墓地内に造営中の武蔵野陵に収められた。
 そうして同年11月、天皇陛下は皇位の継承と即位を正式に内外へ宣言され(即位の礼)、続いて皇室祭祀最大級にミステリアスな大嘗祭が11月23日の深更に厳かに催された。これを以て天皇を視点に見た場合の昭和は完全に終わり、平成が正式に幕が開いたと考えてよい。
 余談であるがこの年、1989年はヨーロッパと日本の政治が大きな変化に見舞われた年となった。
 1985年に旧ソ連の共産党書記長に就任したゴルバチョフが<ペレストロイカ>を推し進めるなかで<プレジネフ・ドクトリン>を撤廃、衛星国家である東ヨーロッパ諸国では民主化運動が大きな潮流を作り出してゆく。オーストリアと国境を接するハンガリー・シュプロンからオーストリア経由で旧西ドイツへ亡命者が大量に流れた<ヨーロッパ・ピクニック>に端を発した東欧解体はその後、急速な展開を見せて、わずか数ヶ月で共産党政権はドミノ倒しのように崩壊して民主化の道を辿った。東欧解体は11月の東西ドイツの<ベルリンの壁>崩壊(ドイツ再統一)とチェコスロヴァキアの<ビロード革命>という大きなトピックを経て、12月の<ルーマニア革命>に雪崩れこみ収束する。このルーマニア革命はチャウシェスク・ルーマニア大統領夫妻の処刑で幕を閉じたが、これは東欧での一連の民主化革命の過程で、軍事衝突と流血という悲劇を伴った唯一のケースであった。
 日本ではリクルート事件や消費税導入等をめぐって自民党は激しい非難に曝され、国政選挙ともなれば常に劣勢に立たされていた。そんな自民党の前に立ちはだかったのが、55年体制確立以来野党第一党として相対してきた日本社会党である。<おたかさんブーム>と<マドンナ旋風>に後押しされた土井たか子率いる日本社会党はその年の参院選にて大躍進、その結果、自民党を過半数割れに追いこみ、所謂<ねじれ国会>が出現した。参院選開票速報での土井党首の言葉は有名である、曰く、山は動いた、と。なお、これから4年後の1993年の衆院選に於いて自民党が安定多数の議席を獲得できなかったことから下野し、代わって細川連立政権が樹立。これを以て55年体制は崩壊した。
 余談はさておき。昭和から平成へ、である。
 元々が歴史好きで当時既に三島由紀夫とか読んでましたから──新潮文庫の三島は高校時代にほぼすべて読みましたよ。並行して古本屋を店から店へと移動して角川文庫とか集英社文庫とかで買い集めましたね。三島自決を特集した雑誌やその死に衝撃を受けた高校生たちの声を集めた新書とかも買いこんだっけ、そういえば──、まぁ気持ちは若干なりとはいえ右寄りの考え(思想だなんて、とんでもないッすね)を持った10代でしたね、わたくしは。高校も海軍で将校やってた人が創った学校だったしね。進学先の学校での講義が退屈だったものだから、うとうとしながらぼんやりと、個人の体験を中心にした昭和史を書いてみたいな、と考えた。昭和史とはいえ実際は自分が生まれた以後の昭和史──大学紛争とか連合赤軍とか日本国内を揺るがしていた大きな事件が一段落して、なんとなく世間が落ち着きを取り戻した(といわれている)頃からバブル経済に至るまでの、昭和史。
 (あらかじめお伝えしておくけれど、昭和30年代とか経験していないからね。<3丁目の夕日>なんてフィクションだから憧れられるのであって、現実にその時代の生活なんていまのいったい誰が満足し得るというのか。ケータイの基地局もなければインターネットも無いんだぜ? SNSなんて当然だ。わたしゃあ、御免だね。生きるなら平成と令和ですよ)
 さて、昭和史の本ね。これについては胸を張って答えるけれど、はい、当然まだ書いていません。えっへん。でも、書きたい気落ちはありますよ。自伝なんてものではないけれど、やはり人間という奴、それなりの時間を生きてくると自分の足跡というものを残したがる生き物らしい。経産婦なら自分のDNAを次に伝える子供が或る意味作品だからいいだろうけれど、男はねぇ……DNA鑑定をしない限り、それが自分の子だなんて断言できないんッすよ。やれやれ。
 20代初めに退屈な哲学の講義を窓縁の席で聞きながら抱いたふとした思い付きというか企みが、その後ずっと心の奥底で眠り続けていたのはわれながらびっくらぽんですけれど、歴史の流れのなかに自分を置いて所謂<神の視点>から俯瞰してみる或いは目を凝らして観察してみる、という行為は、正しく時間の過ぎ行く残酷さと歴史の意思を理解するには必要なことといえるのではないでしょうか。
 うん、でも、渡部昇一の件の本を読んでいなかったら、いまこのタイミングで自分が生きた昭和の歴史を書いてみたいな、なんて思わなかっただろうね。これは歯応えじゅうぶん取り組み甲斐ある書物であると同時に、思い出しと気附きの書物であった。ちかごろのわたくしには昭和という時代が不思議と愛おしく思えてきてならないのですよ、モナミ──。
 そういえば生田先生最後のインタヴューのタイトルも、「昭和から平成へ」であったと記憶する。これは僕の遺言書だからね、と近くに侍る何方かに仰っていたと聞く。わたくしの昭和史も、それぐらいの覚悟で筆を執るかぁ。◆

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