第3014日目 〈渡部昇一『日本史から見た日本人・鎌倉編』を読みました。〉 [日々の思い・独り言]

 太平洋戦争、明治維新、応仁の乱の前にも国家存亡の危機を孕んだ戦争を2つ、日本は経験した。1つは元寇、1つは建武の中興である(関ヶ原は単に徳川方が豊臣方に対して政権運営の是非を天下に問うた下克上の戦に過ぎぬ)。いずれも鎌倉時代に起きているのは歴史の偶然か必然か小首を傾げたくなるところだが、どれもが北条幕府の瓦解を白日の下に曝す事件であったことは疑いない。そうしてそれが渡部昇一いう<日本型行動原理>の源流にもなったことを、興味深く感じるのである。
 そもそも近代化を迎えるまで日本は常設の軍隊を持たない国であった。鎌倉武士を言い表す言葉の1つである「いざ鎌倉(すは鎌倉)」はそれを如実に示すものであって、国家の大事が起こったら幕府が全国の御家人に招集を掛け、敵の討伐にあたらせる、という、悪くいえば寄せ集めの軍隊に頼ることを意味した。幕府が最初に御家人を招集して大がかりな戦闘にあたらせたのは承久の乱であったが、このときの幕府軍は異常なまでのまとまりを見せ、北条泰時を総大将に西へ進軍、付け焼き刃の技術しか持たぬ後鳥羽上皇方の軍を押し返して一気に京都を占領、3人の上皇を問答無用で島流しの憂き目に遭わせた。
 このときの北条幕府に利があったのは、単に軍事行動に馴れていたからだけではない。源平合戦の余韻が残り当時の戦闘経験者が多数存命していたこと、執権北条義時の権力と人心掌握術が極みを見せ、かつ北条政子の劇が御家人たちの心を揺り動かしたからである。頼朝の恩恵を承けて所領を得た者たちの報恩の念が結集されて、軍事素人後鳥羽上皇の<錦の御旗>を掲げた京都方を粉砕することとなったのである。
 が、その威光が薄れ、鎌倉武士たちの間に一種の怠惰が漂った頃日本は──実に7世紀の白村江の戦い以来の──外国との戦闘を余儀なくされた。それが、2度にわたる元寇である(文永11/1274年<文永の役>、弘安4/1281年<弘安の役>)。
 このときの執権は北条時宗であった。が、ここで農耕民族と騎馬民族の戦闘に違いのあることが、誰の目にも明らかとなったのである。即ち前者の戦闘が名乗りによって始まるのに対して、後者の戦闘は一撃必殺・先手必勝のそれであったのだ。つまり、名乗っているうちにやられて「卑怯者」なんていっている暇はない、これまで経験したことのない戦闘の仕方に対する対応が求められたのである。けっしてそればかりが理由ではないが、武器の違いや戦略自体にも両者は異なるところがあった。
 そうこうしているうちに元軍は壱岐と対馬を落とし、北九州博多付近に上陸した。抵抗するも敗北必至な幕府軍(日本軍というた方がよいのか)を救ったのは、古代から令和の今日に至るまでわれら日本人には来て当たり前になった季節の風物詩、即ち台風の訪れである。夜になると元軍は海上の母船に戻るのが常であった。これが元軍の壊滅を招いた──荒ぶる海に船は呑まれ、兵士は溺死し、わずかに難を免れた船はもはや日本攻撃を諦めて撤退した(元軍のなかでの意見対立もあったようである)。再度の元の襲来のときにも、台風が日本を救った。<神風>思想の誕生である。
 北条幕府が瓦解するきっかけを作ったのが、元寇であると先に述べた。というのも、必死になって戦ったにもかかわらず御家人たちはじゅうぶんな恩賞を得ることができず、また幕府はそれを与えるだけの財政基盤・経済システムを持っておらず、御家人たちの不満を抑えることは<徳政令>の発布を以てしても抑えることができなかった。また、功労を判断するための裁判も遅滞を極め、個々の御家人の活躍に応じたじゅうぶんな恩賞を決定することができなかった。こんな不満が積もり積もった自分に起きたのが、後深草天皇の私情に端を発した南北朝分裂である。
 後嵯峨天皇は第2皇子(後の亀山天皇)を寵愛し、これを皇位に就かせることを望んだ。皇位継承にまつわる紛糾は古代から幾度となく勃発してきたことである。しかし、今回は事情が違った。史上初めて皇統が分裂したのである。後にも先にもこんな出来事が起きたことはない。後深草天皇の持明院統、即ち後の北朝と、亀山天皇の大覚寺統、即ち後の南朝とに、分裂した以上、では誰が、いつ、どんなタイミングで皇位に就くことになるのか、が両統の関心事だったが、これは結局幕府の調停によって10年交替と定められた。
 とはいえ、こんなシステムがきちんと機能するはずはない。やがてこのシステムにきしみが生じてきた頃に登場したのが南朝の後醍醐天皇である。後醍醐天皇は政権を武士の手から奪取し、かつての如き天皇親政・王政復古の世を実現させようとして事を起こし、一旦は失敗したが楠木正成というマルスの如き武士が味方にあったことで復権、宋学の理念に囚われて<建武の中興>を実現させたのだった(<建武親政>とも。建武1/1334年から建武3/延元1/1336年)。
 が、これにもいつしか歪みが生じる。その原因はやはり、自分のために戦った武士たちへの恩賞配分の不公平であった。戦わなかったものに過分の報酬が行き、命懸けで戦った武士には雀の涙程の恩賞しか与えられなかった。面白く思わぬ人が続出するのは当然である。かれらの多くは源氏の正統である足利高氏(尊氏)の側に付いて戦った。楠木正成だけは最後の最後まで南朝側にあって、孤立無援の状態になっても獅子奮迅し、遂に湊川にて自刃したが、そのときに弟正季との間に交わされた言葉が、ずっと後の太平洋戦争に於いて軍人たちの間でスローガンのようになった言葉、即ち<七生報国>である。
 後深草天皇の私情に始まった二統迭立、つまり南北朝分裂の時代はその発端から数えれば約140年後に、足利幕府第3代将軍義満の老獪な交渉によって再統一され、いまに至るも皇統は万世一系を保って存続している。

 ──と、渡部昇一『日本史から見た日本人・鎌倉編 「日本型」行動原理の確立』(祥伝社 1989/05)の感想を書くつもりが大きく軌道を外れて、斯様な文章ができあがってしまった。が、これは書かれるべきものであったかもしれない。中世史を繙くにあたって自分の理解が及んでいなかった出来事について、歴史を俯瞰することがようやっとできたからである。実はこれ、感想文を書くに際してもネックになっていて、筆を執ってしばらくするとなにがなにやら分からなくなってしまったのだ。本書に於いていちばんわたくしが納得させられた部分は、後醍醐天皇と楠木正成の行動理念についてである。
 如何に北条幕府が衰退していたからとて後醍醐天皇があすこまで倒幕に熱心になり、王政復古に固執していたのか、どうしてそれを実現させて天皇親政の世に戻し得たのか。また、大義なき戦争に突入していたにもかかわらず楠木正成ともあろう武人が機を見て敏に動くのではなく、失われた大義のために一族挙げて奮闘して最後には自刃するに至った、その行動を支えた理念はなんであったのか。これがまったく分からずにいた。分からないから敬して遠ざける、という悪循環が本書を読んで断ちきられた思いである。
 後醍醐天皇の場合はそれが「正統に対する信念」(P79)である、楠木正成の場合のそれは<所領ではなく自分の信じた大義に従った>(P66)である。渡部昇一はそう説く。この一点を突破口にしてようやく、わたくしは日本史の大転換期に於けるこの2人の特異な人物について知ったように思う。
 殊正成に関しては、社会人なればこそ共鳴するところ大である。渡部昇一は楠木正成の行動原理(ビヘイビア・パタン)を整理して曰く斯く、──
 「一、天皇第一主義であって、その天皇がリーダーとして適格であるかどうかは問わないで、忠誠を尽くす。
 二、武将としては有能であるが、最高の政治的な決定を左右することはできない。
 三、意見を述べるが、通らないと「今はこれまで」とあきらめて玉砕する。
 四、七生報国という理念、つまり「後に続くものを信ず」という考え方を残した。」(P109)
と。
 今日なお日本人のなかに息づく、というかDNAのなかに組みこまれている行動原理の多くが鎌倉時代に作られている、という点について触れることができなかったことを反省点として、これに特化する形で明日以後に新たに文章を起こして本稿の補遺編としたい。
 なお、本書に収められた論考は『マネジメントガイド』という雑誌に1976年01月号から1976年12月号(編:産業能率短期大学・出版:技報堂)まで連載された。◆

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