第3184日目 〈【途中報告】藤沢周平『無用の隠密』はオススメです。〉 [日々の思い・独り言]

 仕事帰りにドトールに寄って、コーヒーを飲みながら藤沢周平の未刊行初期短編集を1編ずつ読むのが、帰宅前の日課になっている。今日は「老彫刻師の死」を読んだ。なんと舞台はエジプト、実在したファラオ御用達の彫刻師カエムヘシトの落日を描いた作品である。
 構成が頗る妙、だとか、人物造形が巧み、とか、風景描写に卓越したセンスを見せている、或いは、良質な会話捌きに唸らされる、などなど後年の藤沢作品に顕著な特徴を備えているかといえば、必ずしもそうとはいいきれない。勿論その片鱗を見出すことは極めて容易である。が、藤沢周平名義で発表されているとはいえ、やはり習作の域を出るものではなかった。
 とはいえ、そこに描き出されるのは紛うことなく藤沢周平の作品である。読ませる力、といえばよいだろうか、そのページターナーぶりは「溟い海」で広く世に出る以前から備えられていた、作者最大の武器であり特質であった(余談ながら、ページターナーとしての藤沢は、時代小説作家としてはあの時代に於いて池波正太郎と並ぶ存在だった、とわたくしは思うている)。
 上述の未刊行初期短編集『無用の隠密』(文春文庫 2009/09)は初出年時ごとに、つまり編年体で収録作を並べている。巻頭の如月伊十郎物──「暗闘風の陣」と「如月伊十郎」は隠れキリシタンを扱って面白いのだが、如何せん展開が急すぎて筋を追うのに精一杯な筆致であるが、そこから先の作品は徐々に描写が密になり、人物造形には陰翳が加わって来、筋の運びも悠然としてきているように見受けられる。殊程斯様に作家の進化──この場合であれば「溟い海」へ至るまでの小説作法の獲得とそれをわがものとしてゆく過程──をつぶさに確かめられる作品集など、そうあるものでもなからう。
 とはいえ、未だ読書は1/2に至らず読了もまだ先ゆえ、ここでお話していることは中間報告に過ぎない。が、この先、この報告内容が大きくねじ曲げられるようなことはない、と、そう確信している。なんとなれば本書収録作の延長線上に、デビュー作「溟い海」があり、その後次々と発表される代表作、傑作、名作が待ち受けているのだから。
 習作ということで買うか迷っている──紀田順一郎なら「to buy, or not to buy.」というだろうか──人がもしいれば、わたくしは「迷うな」といいたい。後の作品のプロトタイプになった作品もあれば、「老彫刻師の死」のようにその後書かれることのなかったタイプの作品もある。
 そうして嬉しいのは藤沢時代小説の大きな柱となる浮世絵物が、早くもここに姿をみせていることだ。たとえば文庫化に際して新たに収録された「浮世絵師」。これは解説の阿部達二氏が述べておられるが、「溟い海」と無関係とはいい切れない作品で、一度でも作者の浮世絵物を読んで悪くない読後感を持ったなら是が非にも読んでいただきたい作品だ。「溟い海」との関係は抜きにしても、物語として夢中にさせられる一品でもあるから。
 しかし、藤沢周平にはあと数編で構わぬから「老彫刻師の死」のような異国に舞台を設けた作品を書いてほしかった、と思う。書かれていたら、読みたかった。◆


未刊行初期短篇 無用の隠密 (文春文庫)

未刊行初期短篇 無用の隠密 (文春文庫)

  • 作者: 藤沢 周平
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2009/09/04
  • メディア: 文庫




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