第3208日目 〈菓子屋の奉公人、怪異に遭う。〉【改訂版】 [近世怪談翻訳帖]

 今日は、江戸時代のエッセイ集に載るぶきみな話をお届けします。

 ──文化年間、というから、江戸文化が最盛を極め、また、そろそろ異国の脅威も迫りつつあった頃のこと。
 時の天皇は119台光格帝と120代仁孝帝、将軍職には11代徳川家斉、12代家慶。松平定信の寛政の改革が暗礁に乗りあげ、水野忠邦の天保の改革が破綻して幕府が弱体化してゆく時代の狭間にあった、徳川時代最後の平安期というてよい時代、江戸の町の片隅であった怪異譚である。
 文化9年8月、下町から数寄屋橋外へ【房斎】という菓子屋が移ってきた。珍しい趣向を凝らした菓子が評判の店だった。
 或る日の朝、奉公人が2階の雨戸を開けようとした。が、建付けが悪いのか、戸は半分しか戸袋に収まらない。押しても引いても、どれだけ強く動かそうとしても、同じこと。
 そのうるさいのを聞きつけた主人があがってきて叱り、代わって雨戸を動かしてみると、すーっ、と戸袋に収まった。雨戸が溝から外れたりして、収まりようがなかったのだろう。
 同じ日の夕刻、朝とは別の奉公人が2階にあがってきて、雨戸を閉めようとした。が、戸袋から戸が出てこない。そこで、力任せに引いてみる。すると戸は戸袋から、さーっ、と滑り出てきた。奉公人はそのあと、雨戸をすべてきっちりと閉めて階下へさがった。
 翌朝、雨戸は──すんなり開いたと思うかい? 勿論、そんなことはなかった。開くはずがないのだ。
 今度の奉公人はかなり腕に力をこめ、腰を落とし、ふんむ、と鼻息荒く戸を引いた。どうにかして雨戸を開け、戸袋へ押しこまねばならない。そのときである、──
 うすぐらい戸袋の陰から女の顔が覗いていた。こちらを見ている。だけでなく、その奉公人を組み敷いてきた。
 驚いた。悲鳴をあげた。肝が潰れた。その奉公人は火事場のなんとやらで雨戸を動かし、戸袋へ叩きこみ、けたたましい音を立てて階下へ駆けおりてゆき。
 女は戸袋の奥へでも引っこんだか、どこにも見えなくなっていた。
 夜が明けると主人があがってきて、先日から奉公人たちを驚かせている件の物の怪女を戸袋から軒の下へ引きずり出した。すると、その女の物の怪は、ぱっ、と消えてしまたのだった……。
 なんでもこの家の前の住人もこれに悩まされて引き払うことを決め、その際【房斎】へ紹介、譲ったのだそうだ──私にこの話を聞かせてくれた人は、そういった。

 これは江戸時代中期から後期を生きた根岸鎮衛(ねぎししずもり、または、やすもり、と読みます)が著した『耳囊』という随筆集に載る1つの怪談、奇談であります。
 全10巻で構成されますが当時の版元の都合などでもっと少ない巻数で巷間に流布し、完全揃いは現在、カリフォルニア大学バークレー校に収蔵される旧三井文庫本のみといいます。今回翻訳のテキストに用いた岩波文庫は、この旧三井文庫本を底本としたものであります。
 原題は「房斎新宅怪談の事」といい、巻之九に収まる。岩波文庫では全3巻の内下巻、P228-9に載る。1991年06月刊(上;同年01月、中;03月)。
 この、薄暗い戸袋からじっ、とこちらを見ている女の顔を想像すると、背筋にゾワリ、と寒いものが走りませんか。ねっとりとしたその眼差し、色のない瞳を持った顔は、ぶきみで取り憑かれそうな、それであります。わたくしは白状すると、まぁのめり込んでいたからでもありましょうが、ガタガタ体がふるえ、いまからでもコメディタッチの翻訳に変えようかな、と刹那と雖も真剣に考えた程……。
 しかし天晴れなるは【房斎】の主人であります。かなりの豪ですね。
 『耳囊』は根岸鎮衛がさまざまな人から仕入れたり、或いは風聞であったりを書き留めた奇談雑談の集であります。然程難しい文章で書かれているわけではないので、手持ち無沙汰なときなど以前取りあげた『江戸怪談集』と同様に開いて漫然と時を過ごすことの多い書物であります。
 『耳囊』についてはまた後日、紹介の筆を執る予定です。
 この本にはわたくしには子供の頃から馴染み深い分福茶釜のハナシや、酒で命を落とした人の話など面白いエピソードがたっぷり詰まっておりますので、また機会を見てこのなかからこわい話・ぶきみな話・奇妙な話・ふしぎな話を翻訳して、お披露目したいと考えています。◆


耳嚢〈上〉 (岩波文庫)

耳嚢〈上〉 (岩波文庫)

  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/01/16
  • メディア: 文庫



耳嚢〈中〉 (岩波文庫)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1991/03/18
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耳嚢〈下〉 (岩波文庫)

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  • 出版社/メーカー: 岩波書店
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