第3244日目 〈マカバイ記 一・第10章:〈デメトリオスとヨナタンの同盟〉他with蔵書を作りあげてゆく喜び〜ギボンが届いた。〉 [マカバイ記・一(再々)]

 マカバイ記・一第10章です。

 一マカ10:1-14〈デメトリオスとヨナタンの同盟〉
 セレコウス紀160年即ち前153年、アンティオコス4世の遺児を名乗る男がプトレマイスに上陸、占領した。名を、アレキサンドロス・エピファネス、という。本書以外の史料は、アレキサンドロス・バラス(アレキサンドロス5世)、と伝える。プトレマイスの住人はアレキサンドロスの統治を歓迎した。
 アレキサンドロス5世の登場を知ったデメトリオス1世は、戦闘の準備を進める一方で、ユダヤとの講和を図る必要が生じたことに気附いた。パレスティナ南部を中心に活動するマカバイ家とアレキサンドロスが手を結んだらば必ずや、大きな脅威となるに相違なかったからである。
 が、懸念もあった。これまでシリアが行ってきたユダヤ弾圧の委細を、ヨナタンたちが忘れているとは到底思えなかったからだ。さりとてアレキサンドロス5世とかの敬虔なるユダヤ人の一派を連携させるわけには、断じていかない。国家運営に支障を来すこと必至だからである。
 そこでデメトリオスはヨナタンに書簡を送って、軍の編成・運用と武器の用意・調達の権限を与える旨約束した。併せてかつてエルサレムの要塞に監禁した人質──ユダヤの指導者たちの息子たちを解放する旨命令を下した。
 驚いたのは要塞を守る兵士たちである。王がヨナタンに下した命令を知るとかれらは持ち場を放棄し仕事を放棄し、自分の国へとそそくさ戻っていった。かのユダヤ人たちの反撃を恐れたからである。ただベトツルだけは未だ律法や掟を捨てた不敬虔な者たちの逃れの町として、機能していた。

 一マカ10:15–21〈アレキサンドロス王、ヨナタンに近づく〉
 アレキサンドロス5世もマカバイ家と敬虔なるユダヤ人の勇猛果敢ぶり、シリア軍相手の獅子奮迅の戦いぶりを伝え聞き、是非とも自分の側に取りこんでおきたい人材と考えた。
 新しく登場したこの王は、ヨナタンと同盟を結ぶことにした。
 アレキサンドロス5世はヨナタンを大祭司に任命し(一マカ10:20)、「王の友人」なる名称といっしょに紫の衣と王冠を与えた。
 セレコウス紀160年即ち前153年、その第七の月つまりティスレウの月、ヨナタンは神聖な衣をまとって、仮庵祭を催した。対シリアの軍勢の召集と武器の準備も、並行して行われた。

 一マカ10:22−45〈ユダヤ人にあてたデメトリオスの書簡〉
 アレキサンドロス5世とヨナタンの同盟を知ったデメトリオス1世は悩んでいた。相手に一歩、出し抜かれたことで、シリア/アンティオキアは南部地方に大きな軛を抱えることになった。
 デメトリオスは相手に先んじられたとはいえ、自陣にヨナタンの一派を引き入れることの利をよく承知していた。そこで王は再度、ヨナタンへ書簡を送った。デメトリオスからユダヤ国民にあいさつを送る、と始まるその書簡に曰く、──
 01;全ユダヤ人からの貢と塩税と王冠税、家畜税の徴収を免除する。
 02;エルサレムとその周辺を聖地とし、十分の一税や租税を免除する。
 03;聖所の運営や修復に必要な経費に充てるため、プトレマイス及びその属領を寄贈する。また、私デメトリオスは毎年の税収から銀10,000シェケルを寄贈する。
 04;聖所の再建と修築のための費用は王の会計から支出することとする。
 05;エルサレムの城壁、周囲の砦の再建(城壁の再建も含む)のための費用も同様に、王の会計から支出することとする。
 06;私デメトリオスはエルサレムの支配権を放棄し、大祭司にその権利を譲渡する。大祭司は自分の任命した者をそこの警備につけることができる。
 07;捕虜として連行されたすべてのユダヤ人を無償で解放する。
 08;ユダヤの祝祭日、安息日、新月と記念日、祝祭日の前後3日間を、全ユダヤ人に休息と解放のため与える。これらの日には如何なる理由があろうともユダヤ人から徴税したり、危害を加えたりしてはならない、とする。
 09;毎年、聖所の収入から納めさせていた銀5,000シェケルは以後、免除する。本来なら祭儀を司る祭司たちへ還元されるべきものだからである。
 10;30,000人のユダヤ人を王の軍隊に加える。待遇は、王の軍隊に属する者と同じである。
 11;一部の者については国家の要職に就かせる。軍の将校にも任ずる場合がある。
 12;全ユダヤ人が、かつて王がユダの地で命じたように律法に従って歩むことを認める。
 13;サマリヤとガリラヤのなかから3地方(アファイレマ、リダ、ラマタイム)を正式にユダヤに編入し、いずれをも大祭司の権威に従わせる。
──以上。順不同である。
 破格の扱いであった。シリアの対ユダヤ政策が根本から一転した。さて、実質的な独立もしくは自治の容認文書を受け取ってヨナタンたちは、どう反応したか?

 一マカ10:46−50〈アレキサンドロスとデメトリオスの戦い〉
 勿論、ヨナタンたちはこれを信じなかった。これまでのことを忘れていないからだ。むしろかれらはアレキサンドロス5世に好感を持ち、そちらの申し出の受諾を検討した。
 結果として、ヨナタンはアレキサンドロスと同盟を結んだのである。
 アレキサンドロス5世はデメトリオスに対して戦いを挑んだ。アレキサンドロス軍は敗走したが、その日、デメトリオス1世は戦死した。

 一マカ10:51-58〈アレキサンドロス王とプトレマイオス王の同盟〉
 アレキサンドロス5世はエジプトの王、即ちプトレマイオス6世フィロメトルとも同盟を結んだ。王の娘を自分の妃とし、姻戚関係となったのだ。同盟手続きはエルサレム北西約12キロにある地中海沿岸の町、プトレマイスで行われた。セレコウス紀162年即ち前151年である。
 王の娘は、クレオパトラ、という。あの、クレオパトラでは勿論ない。クレオパトラ・テア、という女性である。
 プトレマイオス朝エジプトの王は娘のために、プトレマイスで「絢爛たる婚宴を」(一マカ10:58)催したのだった。

  一マカ10:59-66〈ヨナタンの成功〉
 さて、アレキサンドロス5世はヨナタンに書簡を送り、そんな次第でプトレマイスにおりますので、よろしければお越しになりませんか、と誘った。
 ヨナタンに断る理由はない。出掛けてゆき、2人の王に謁見した。それぞれに多くの贈り物を献上した。
 律法に背く不敬虔なユダヤ人がその場に集まってきた。アレキサンドロス王は、かれらのヨナタンに関する讒言へ耳を傾けなかった。王はヨナタンを紫の衣に着替えさせ、隣に坐らせた。
 そうして重臣たちに、「町に出てゆき、ヨナタンを讒言してはならない、かれの妨害をしてもいけない、といえ」と命じた。紫の衣をまとったヨナタンを見て、かれを讒言した者らは皆、どこかへ退散していった。
 アレキサンドロス5世はヨナタンを第一級の友人の列に加え、軍の司令官及び地方長官に任命した。「ヨナタンは無事に、また満足してエルサレムに帰った。」(一マカ10:66)

 一マカ10:67-89〈ヨナタンとアポロニオスの戦い〉
 セレコウス紀165年即ち前148年になった。
 (一マカ10〈アレキサンドロスとデメトリオスの戦い〉で)戦死したデメトリオス1世の息子がクレタ島から脱出して先祖の地に入った。
 アレキサンドロス5世はこれを聞いて不安になり、アンティオキアへ戻った。
 息子デメトリオスからコイレ・シリアの総督に任命されたアポロニオスはヤムニアに陣を敷き、大祭司ヨナタンに書簡を送った。曰く、──
 お前がひとり抗っているせいで俺は笑い物になっている。山賊みたいな真似していないで、本当に実力があるなら平野に出てきて俺たちと戦えや。決着つけようぜ? 俺が誰で、後ろ盾がどなたか、聞いて教わってこい。
 みんないってるぞ、「俺たちの前では足で立つこともできない奴、それがヨナタンだ。あいつの先祖は2度も自分たちの地で失敗してるんだ」とな。今度も同じだ。お前は俺たちに勝つことはできない。
──と。
 ヨナタンは激怒した。かならずこの邪知暴虐の総督を倒さなくてはならない、と決意した。斯くしてヨナタン率いる敬虔なるユダヤ人の軍勢はヤッファへ向けて進軍した。そこにシモンの部隊が合流した。
 アポロニオスは策を練った。「三千の騎兵と大部隊を招集し、アゾトまで行き、そこを通過するかのように見せながら、しかし実際は、信頼していた騎兵の大部隊を率いて、平地へと歩を進めていた。ヨナタンの軍は、彼を追撃してアゾトまで行った。こうして両陣営は戦いを交えた。アポロニオスは騎兵一千をユダヤ軍の後方に潜ませていた。」(一マカ10:77-79)
 要するにアポロニオスは軍を二分して、主力部隊を囮にしてヨナタンをおびき寄せ、躍起になっているところを背後から急襲しようとしたのである。
 が、ヨナタンはこの計画を察知した。ユダヤ軍は包囲されて、四方から矢の雨を浴びたが、ヨナタンの命令もあって兵はよく持ちこたえた。やがてシリア/アポロニオス軍の軍馬に力の衰えが見え始めた。そこへシモンの部隊が襲いかかり、敵軍は総崩れとなり、敗走を始めた。
 アポロニオスの兵士たちはアゾトへ逃げこみ、かれらの神ベト・ダゴンに救いを求めて神殿へ立て籠もった。ヨナタンは町を焼き、神殿に火を放った。斯くしてアポロニオスの敗残兵は死んだ。この戦闘で命を散らせたアポロニオスの兵は、8,000人という。
 ──アレキサンドロス王はこの戦闘の報告を受け、更なる栄誉をヨナタンに授けた。王家の慣習に従って金の留め金を贈り、エクロンとその周辺一帯を所領として与えたのである。

 ユダヤに2人の王が接近した。新しく登場したアレキサンドロス5世と、度々ユダヤを弾圧したデメトリオス1世とが。目的は、同盟の締結であります。
 デメトリオス1世は、ユダヤが交渉に応じないことはじゅうぶん覚悟していたでありましょう。自らが命じて行わせた弾圧行為を、どれだけ時間が経過しようとマカバイ家の者、或いは敬虔なるユダヤ人たちが忘れているなんて思えませんから。ユダヤの側から見た際、事はそんなに甘くない。だからかれらがシリアの提案を拒み、アレキサンドロス5世と同盟・友好を結ぶことは初めから想定範囲内だったはずであります。
 それでもデメトリオスは南に抱える不安を払拭したい思いがあった。それがため、ユダヤ人にギリギリまで譲歩した内容の書簡を送って再度の接触を図り、自分の陣営に取りこまんとしたのであります。事実、このとき送られた書簡の内容は、ユダヤ人への不干渉と自治を認める内容でありました。これだけ見ればじゅうぶんに検討する余地もあるが、如何せん、過去の仕打ちがユダヤをして「検討するに及ばず」てふ結論に直結させた。
 タイミングとしてはアレキサンドロス5世からの提案の方が先で、ユダヤはこれを良しとして同盟に踏み切りました。しかし、どれだけデメトリオス1世がへりくだった態度で接して、破格の譲歩を示してこようが、過去の仕打ちがある以上、ユダヤとしては先に締結したアレキサンドロスとの同盟を破棄、もしくは維持したまま、デメトリオスからの提案を受け入れてこれとも同盟を結ぶ、なんて芸当はできないでしょう。換言すれば、デメトリオス1世とアレキサンドロス5世を両天秤に掛けるまでもなかったのであります。
 そのデメトリオス1世が戦場で戦死。どのような最期であったのか、そもどのような戦闘であったのか、「一マカ」は伝えておりません(ユダヤと外国の戦闘でないから記述しなかった、というのが実際でしょう)。それを知ってかどうか、1世の息子が人質になっていたクレタ島を脱出してシリアへ入国しました。第11章で新たにシリア王として即位するデメトリオス2世であります。
 このデメトリオス2世の即位は前145年、といわれる。そうして同じ年、実はもう1人、シリア王として記録される人物が現れます。それがアンティオコス6世でした。かれは次の第11章で登場する。詳しくはそちらへ譲りたいので、ここではアンティオコス6世がデメトリオス2世と同じ年に即位したことと、かれがアレキサンドロス5世の息子であることだけ述べておきましょう。
 デメトリオス1世からユダヤに送った書簡に、「サマリヤとガリラヤから3地方ユダヤに編入する」旨あります。第10章では実はアファイレマ、リダ、ラマタイムの地名は記載されていませんが、ここは必要と判断し、一マカ11:34から補っておきました。この3地方はむかしの区域でいえば、エフライムにあたります。旧北王国の領土で、旧南王国ユダと国境を接した場所です。
 同じ書簡に見える、「かつて律法に従って歩むことを認めるとした王」についても述べておきましょう。リシアスがアンティオコス5世に進言したユダヤとの講和のなかに、これと同じ内容が確認できました(一マカ6:59)。従ってここでデメトリオス1世が念頭に置いた「王」とは、アンティオコス5世であります。なお、『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P147当該箇所の脚注はこれを「デメトリオス5世」としておりますが、誤植でありますので参照される際はじゅうぶんご注意いただきたく存じます。
 〈ヨナタンとアポロニオスの戦い〉でヨナタンとの戦いに敗れたアポロニオスの兵が逃げこんだ先が、アゾトのベト・ダゴン神殿でありました。これはお復習いになりますが、旧約聖書の「サムエル記」上に、ペリシテ人に奪われた聖櫃がダゴン神殿に運びこまれた記述があります。途端に災いが及んだので恐れたペリシテ人は、奪った聖櫃をイスラエルに返還するのでした。けっして半魚人の如きダゴンを祀る神殿ではありません。ましてやそこに出入りするのはダゴン秘密教団の信徒なぞではございません(遊んでみました)。
 最後に、プトレマイオス6世の娘、アレキサンドロス5世の妻なりしクレオパトラについて述べて、終わりといたします。
 ここでアレキサンドロス1世(アレキサンドロス・バラス)にお嫁さんに出されたクレオパトラは当然、「鼻がもうすこし低かったら……」とパスカルにいわしめたあのクレオパトラではありません。
 こちらのクレオパトラの父は、プトレマイオス6世(プトレマイオス・フィロメトル)。名は、クレオパトラ・テア、という。プトレマイオス6世は妻クレオパトラ2世との間にプトレマイオス7世、クレオパトラ3世(クレオパトラ・コッケ)、クレオパトラ・テアを設けた。
 クレオパトラ・テアはアレキサンドロス5世に嫁しますがすぐに離婚して(させられて?)、今度はデメトリオス2世の妻となり、セレコウス5世フィロメトルを産む。デメトリオス2世が捕虜となった後はその弟アンティオコス7世と再々婚した女性であります。
 そうして史上最も有名なクレオパトラ──映画ではエリザベス・テイラーが演じた、世界3大美女に数えられるクレオパトラ──はプトレマイス12世の娘クレオパトラ7世、クレオパトラ・フィロパトルであります。
 彼女はプトレマイオス朝エジプト(事実上)最後のファラオ(在位;前51-30年)。時はローマが共和政から帝政へ移行する時期。実際のところ、クレオパトラ7世失脚後のエジプトはローマ帝国初代皇帝アウグストゥスに支配されたのであります。ローマの武将アントニウスを翻弄してローマを裏切らせ、滅亡の一途をたどったのは、このクレオパトラ7世であります。
 前32年、プトレマイオス朝エジプトに宣戦布告したローマはアクティウム海戦で決定的勝利を収め、前30年に王都アレキサンドリアを制圧。アントニウスは自害し、その10日後にクレオパトラ7世は自害した。
 このクレオパトラ7世とアントニウスの情欲と権力欲を中心に置いて、ローマが地中海世界の覇権国家となり、共和政から帝政へ移行する時代を切り取って描いてるのが、シェイクスピア『アントニーとクレオパトラ』であります。
 ちなみにアントニウスと最初の妻小オクタウィアの遺児からクラウディウス、カリギュラ、ネロといった後のローマ帝が誕生した。ちょっとだけお話しますと、──
 アントニウスと最初の妻小オクタウィアの遺児のうち、娘小アントニアは叔父にあたる初代ローマ帝国皇帝オクタウィウスに養育されて、大ドルススと結婚して第4代ローマ帝国皇帝クラウディウスを生む。
 クラウディウス帝の兄ゲルマニクスとオクタウィウスの孫大アグリッピナが結婚して第3代ローマ帝国皇帝カリギュラが生まれる。カリギュラの妹小アグリッピナがアントニウスを祖父とするドミティウス・アヘノバルブスと結婚して第5代皇帝ネロが生まれた。
 オクタウィウスからネロまでの王朝を、<ユリウス=クラウディウス朝>と呼びます。この五人には直系の嫡男を皇帝(後継者)にできなかったという共通項がありました。



 ゆっくりとであっても自分の研究分野、趣味の分野の書物を1点、また1点と揃えてゆく愉しみに優る喜びが他にあることを知らない。学生時代、けっして豊かとはいえぬお小遣いやバイト代から毎月数千円也を日本の古典文学や美術関係の書物を、古本屋を丹念に歩いて回り、亀の歩みに等しいスピードで購い、繰り返し読み耽った喜びを忘れられない。
 好きな本を買い集めてゆく、必要な本であればそのたび清水の舞台から飛びおりる覚悟で購入してしまう。──思えばこれは高校時代から続く趣味であった。怪奇幻想文学のジャンルを進学したあとまで続けてその後は、古典時代の日本文学を柱に海外の名作群、絵画にまで拡充してゆき、そうやって<蔵書>と呼ぶべきものを作りあげていった。 
 そうしていまは、それが聖書とオリエント・地中海世界の歴史と、キリスト教史へ関心が向いている。そのことから年に数冊のスピードであるが、必要と思うたり読みたいと欲した本を迷った末に購い書棚へ並べ、時に開いて酷使するようになって、もう10年以上になる。
 ここ数年は書籍購入に割ける可処分所得が若干ではあるが増えたこともあり、これまでは手が出なかった揃い物やずっと昔の文献を買い求めることもできるようになった。考えようによっては(見ようによっては、かな。ずっと文章を書きつづけてきていても時々、こうした表現に迷うことがあります)、働いているのは税金や年金を遅滞なく支払うためであると共に、書籍購入という目的ありきである、といえるように思う。
 さて。直近の例でいえば、ギボン『ローマ帝国衰亡史』全11巻である。一昨日かな、お話したものであるが、それが今日の昼間に届いた。箱を開梱する手が震えていたのを、けっして忘れないだろう。元版の単行本ゆえ、嵩はあるが手に馴染むサイズで活字の組み方も悪くない。全巻初版、目立つ外傷等なし、刊行時のチラシや葉書が挟みこまれている、そうして嬉しいことに全巻帯附き。これで総額4,000円を切っていたのだから、躍りあがる気持ちは理解いただけよう。
 目次と口絵、あとがきへ丹念に目を通したあとは、各巻を拾い読みして、午後の一刻を、夕方までそうやって過ごした。ああ、やっぱり歴史が好きだ。──目撃者によればギボンへ目を通しているときのわたくしはとても幸せそうな横顔だったそうである。
 直接、いまの聖書読書に結びつく買い物ではないけれど、補助資料という名目で所有することになんら後ろめたい気持ちはない。すぐに役立つ書物なんて、喫緊の目的あって状態を問わず購入した本以外にないですよ、わたくしには。むしろいまは、むかし文庫版で買い揃えて手放してしまった古代ローマ史の名著をふたたび迎えられた喜びにどっぷり浸っているところだ。
 ゆっくりと蔵書を作りあげてゆく法悦ここに極まれり、ではないか?
 「自分の専攻の分野や、趣味の分野の本を一点ずつそろえてゆき、自分なりの小図書室を作り上げてゆくことに人生の楽しみを見いだすことができた。それはまた学問を学問として学校でやるだけでなく、それを生活の一部とする道でもあった。つまり知的生活が可能であった」(渡部昇一『続 知的生活の方法』P47 講談社現代新書 1979/04)──高校3年の春休みに読んでずっと記憶の底にあり続けたこの言葉をいま程しみじみと、実感として味わえる時はないかもしれない。
 願わくば、「『自分自身のライブラリーを作るという楽しみ』を持つことをえた」(同P49)1人として、「目つきがやさしい。ものあたりがやわらかい、つまりジェントルである。話しているときにかすかな微笑が絶えない。そして話にユーモアがある」(同P48)人になれますことを。
 早くギボンをゆっくり読めるようになりたいな。◆

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