第3245日目 〈マカバイ記 一・第11章:〈エジプト王の野心と死〉、〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉他withセネカの言葉、ストア派を読んだ一昨年の晩秋。〉 [マカバイ記・一(再々)]
マカバイ記・一第11章です。
一マカ11:1-19〈エジプト王の野心と死〉
エジプト王、プトレマイオス6世フィロメトルにはアレキサンドロス5世の王国を手中に収める企みがあった。
そこでエジプト王はデメトリオスと協定を結んだ。そのため、いちどはアレキサンドロスに嫁がせた娘クレオパトラ・テアをデメトリオスの妻に与える。斯くしてエジプトとシリアはわずかの友好の季節を解消し、ふたたび敵国同士となった。
その頃、アレキサンドロス5世はアンティオキアを留守にしていた。北西のキリキア地方へ反乱鎮圧に赴いていたのだ。プトレマイオス王の企みを知ったアレキサンドロス王は身の危険を感じ、アンティオキアへは戻らず、息子や部下たちを連れてアラビアの砂漠地方へと逃げこんだ。
が、かの地でアレキサンドロス5世はアラビア人のザブディエルに殺されたのである。首はプトレマイオス王の許へ届けられた。そのプトレマイオス6世はその数日後に崩御した。
そうしてデメトリオスがシリアの王位に就いた。デメトリオス2世の誕生である。時にセレコウス紀167年即ち前146年。
一マカ11:20–29〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉
ヨナタンの許にデメトリオス2世からの伝令がやって来た。伝令は王の命令を伝えに来たのである。曰く、エルサレムの要塞を攻撃する準備をしていると聞いたが本当か、もし本当ならただちにその仕度をやめて、プトレマイスに来て事情を説明してもらえないか、と。
ヨナタンは命令を無視する気持ちでいたが、プトレマイスには赴くことにした。長老と祭司から同行者を選び、多くの贈り物を携えて。
王の歓迎を受けたヨナタンは、大祭司職をはじめとする自分が与っている栄誉を共々確認したあと、その場を利用して交渉を持ちかけた。即ち、ダヤ、アファイレマ、リダ、ラマタイム、サマリア各地方の租税免除の嘆願と、その代わりとして300タラントンを支払うという申し出である。
デメトリオス2世はこれを快く承諾し、ヨナタンに確認の書簡を送った。「父ラステネスへ書き送る書簡と同じ内容を、ヨナタンに送る」と始まるその書簡に曰く、──
一マカ11:30−37〈ヨナタンにあてたデメトリオス王の書簡〉
私デメトリオス2世は以下の恩恵を、忠義のユダヤ人に与える。
01;ユダヤ全土とアファイレマ、リダ、ラマタイムの3地区をかれらの土地として承認する。
02;エルサレムでいけにえをささげるすべての者から、地の産物税と果実の税を廃止する。
03;これまで私が受けとっていた各種の税、即ち十分の一税、塩税、王冠税、他の諸税すべてをかれらに譲渡する。
04;今後永久にこれらの事項に関して取り消されることがあってはならない。
──以上。
王はこの書簡を、聖なる山の目立つところへ掲げさせた。
一マカ11:38-53〈ヨナタン、デメトリオスを援助する〉
デメトリオス2世の領内には平穏の日々が続くようになった。反乱を企てる者も、その動向を知らせる報も絶えた。そこで王は異邦の島々から雇った騎兵部隊だけ残して、自前の軍隊を解散させて兵を故郷へ帰した。これが兵士たちの不満の種となった。
さて、アレキサンドロス5世に仕える武将に、トリフォンという者がいた。かれは兵士たちの不平不満の声を聞き、秘かにアラビアへ出発した。先王の遺児でいまはアラビア人イマルクエに育てられているアンティオコスを還してもらい、これを担いで反デメトリオス戦の狼煙をあげようというのだった。交渉は順調に進み、返還は為され、トリフォンはシリアへ急行した。
刻を同じくして、反デメトリオスの運動が湧き起こった。市民が波のように王都へ押し寄せた。デメトリオス2世はヨナタンに救援を依頼した。ヨナタンは精鋭3,000人を送りこみ、反乱を鎮圧させた。反デメトリオスの運動に参加していた人々は消沈し、投降した。
そもユダヤ軍の派兵は同盟ゆえとはいい切れぬものがあった。デメトリオス2世が自国の反乱鎮圧を要請してきたのに乗じて、ユダヤ国内に駐留するシリア軍の撤退を求めてそれを王が承諾したからである。この一件のおかげでユダヤ人たちは面目を施した。
が、王座に戻ったデメトリオス2世は国内にふたたび平穏が戻ったと見るや、ユダヤからの軍撤退を反故にし、その後もヨナタンたちを悩ませ続けたのである。
一マカ11:54-74〈アンティオコスとヨナタンの同盟〉
トリフォンがアンティオコスを連れて帰国した。幼きアンティオコスはアンティオコス6世として王位に就き、新たな王の許へ解雇された兵たちが集まった。かれらはデメトリオス2世に戦いを挑んだ。デメトリオス2世は敗走した。トリフォンは象部隊を率いてアンティオキアを制圧した。
斯くしてデメトリオス2世のシリア単独支配は終わり、このあと数年の間、2人の王がシリアの王位に在った。セレコウス紀168年即ち前145年のことである。フランシスコ会訳聖書当該箇所の註釈に拠れば、シリア東北部の民がデメトリオス2世を支持し、西部地方の民がアンティオコス6世を支持した、という(P1163 註14)。
アンティオコス6世はヨナタンに書簡を送り、改めてのユダヤ自治とヨナタンの職掌を確認し、兄弟シモンを「『ティルスの階段』から、エジプトの国境に至るまでの地域の総司令官に任命した。」(一マカ11:59)この地域にはプトレマイス、アシュケロン、ガザなどが含まれる。
ヨナタンは王から与えられた地中海沿岸地域の町の平定にあたった。シリア軍のすべてが同盟軍としてかれの下に従いた。アシュケロンを平定し、ガザでは抵抗に遭ったが周辺都市に火を放ち、略奪する様を見せつけたことでこれも平定した。
それから(エルサレムを擁す)ユダヤ地方を西に横断、ヨルダン川を渡りギレアドを通過して北上、ダマスコの町へ向かった。更にデメトリオスの残党部隊が兵力を集めてガリラヤのケデシュに入ったことを知ると、これを撃破した。また、ゲネサル湖畔に陣を敷きハツォル高原に進軍して異邦人の軍隊を相手に戦ったが敗走、が、再戦を挑んで今度はこれを撃破した。
シモンはベトツルに向かって陣を敷き、数日にわたって攻撃を繰り返して、敵を降伏させた。
ヨナタンもエルサレムへ帰ってきた。
本文にも反映させましたが前145年からシリアは2人の王を擁して、内紛が続きます。最終的にはデメトリオス2世がアンティオコス6世を退け、かつ弟のアンティオコス7世に代わってふたたび王位に就くのですが、これはまだしばらく先のお話です(前129年)。
なお『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P114の一覧「マカバイ記一・二におけるセレコウス朝とユダヤ教の指導者」には1箇所、誤植がございます。「アンティオコス4世エピファネス(前145-142年)」は「アンティオコス6世」が正しい。この本を読んだり参照される際は十分お気を付けください。それとも重版かかって誤植は訂正されているのかな?
さて、そのデメトリオス王ですが、本章で自国の軍隊を解散させる、という愚挙に出ます。平和が続いているから軍隊は不要である、という論が王自身から出たのか、或いはクーデターの首謀者格の役人が吹きこんだのか、定かでありません。が、結果としてトリフォンの王位簒奪をやりやすくする行為でもありました。
反デメトリオスのクーデターは、解雇されたシリア軍人が発火点になったことはまず間違いない。解雇された兵の、再雇用や家族の生活保障もないまま路頭に放り出した王への怒りは、如何程だったでありましょう。そこに、シリア軍の武器製造や部品の調達にかかわる商人たち、保管庫の担当者や軍務に携わるあらゆる人たちの不満がそこに合流。それが飛び火して一般市民が常に政治や官僚に対して抱く不満や不平を爆発させる。斯くして「異邦の島々から雇った傭兵部隊」(一マカ11:38)だけでは鎮められない、激情に駆られた反乱の出来上がりであります。
反乱はいちおう(王の要請を受けた)ユダヤ軍の介入により収まりましたが、正直なところ、よくデメトリオスの王位が揺るがなかったな、と思うのです。ユダヤ軍が助勢したから詳しく書き留められたのでしょうけれど、他国の反乱鎮圧の要請を承けてユダヤ軍が──イスラエルが動いた例というのは、あまりなかったように記憶します。エジプトのファラオがバビロニア軍を攻撃するにあたって南王国ユダが援軍を差し向けた、というのはありましたが……。
このようにデメトリオス2世の国家運営には根本的致命的な欠陥がありました。軍隊を解体した国家が自国で有事に遭遇した際、外国の救援を頼まねばならない状況になるのは必然。軍隊を解散させた時点で想定しておくべき事柄でありました。脳ミソが蕩けてお花畑が咲き誇っていたのでしょうか。有事の勃発を念頭に置いて行動できぬリーダー、危機管理能力の欠落したリーダーをトップに戴いた組織こそ哀れなるべし。まるでどこかの国みたいな泰平天国ぶりでありますな。
そも反乱が起こった際、傭兵部隊はなにをしていたのですかね? 先に賃金を要求したのでしょうか。それともちょっとだけ戦って、手に負えないと見るや海を泳いで帰ってしまったのか。
解雇されて食いっぱぐれること、自分は勿論家族も養えなくなること、生活の保障がなくなること、かつ残されたのが=優遇されたのがいわば外人部隊であったこと、この4点が大雑把にいえばシリア軍人の、政府ならびに王への反感を募らせる結果となった。まぁ、そうなるわな。
王は良かれと思うたかもしれないが配慮不足、残すべき人材の選択を間違えました。これが件の反乱につながってゆくのですが、このとき解雇された兵たちは、新たに即位を宣言したアンティオコス6世の下に集まってきて、元の雇い主に戦いを挑んでゆく。積もり積もった怨みつらみがかれらを動かしたでありましょう。その勢いに推されたか、デメトリオス2世は敗れて敗走したのでありました。
一昨年の秋であった。気鬱な田舎への旅であった。終われば2度と遭わずに済む、顔を合わせる用事がなくなることだけが救いだった。
先祖来のお墓を終うことにしたのである。たまたま生き残っただけに過ぎない叔父のしゃしゃり出に愛想を尽かし、一気に片を付けて縁を切る覚悟を固めたのである。
祖母から騙し取った兄弟名義の株や債権の名義変更を巧みに行って、換金した数1,000万をすべて自分のものにして子供3人を育てて自宅をリフォーム、会社も興した叔父である。そんな薄汚く後ろめたいお金で育てられたアレの息子娘たちは、その事実を知っているのか。
とまれ、いまは顔を合わせることも年始の挨拶もしなくて済んでいる。アレとその妻、子供たちが死んでも葬儀の席に出向くことはないだろう。こちらも連絡はしない。これ以上の平等がどこにあろう? 文句を言われる筋は、どこにもない。覚えておけ。
さて、本題。
田舎への電車のなかで、セネカを読んだ。『孫子』にするか迷ったが、洒落にならないのでセネカを選んだ。戦争するつもりでいたからその前にクラウゼヴィッツ『戦争論』にも目を通したが、これは流石にお門違いも良いところだった。
で、セネカである。心をなるたけ平坦にしておきたかったのである。闘争心に火を注ぐ読書ではなく、むしろ逆に静穏に努めたかった。ページの片隅をいちばん多く折ったのは、「心の安定について」である。これを契機に古代ギリシアの哲学者たちを読むことも増えてきた。
そのセネカのなかで特にそのとき、心に響いたのは、こんな一節であった。曰く──
「まんまと成功した悪事の山が、どれほどあるだろう。あるいは、貪欲が、どれほどの利益と損害(いずれも忌まわしいものだ)を得ているだろう。……そんなもののことを考えていると、まるで、徳が次々と消え去っていくかのように、精神が闇に包まれていく。……だからこそ、われわれは、ものの見方を変えなければならない。人々が持つ欠点すべてを、忌まわしいものとは思わずに、笑うべきものと思うようにするのだ。……だから、われわれは、なにごとも軽く見るようにし、心を楽にして、ものごとに耐えるべきなのである。人生を嘆き悲しむより、笑い飛ばしたほうが、人間的なのだ。」(P254-246 中澤努・訳 光文社古典新訳文庫 2017/03)
──と。
ここを読んだのは、大きな山また山を越えているときだった。もうすぐ田舎に到着する、という時刻だ。それまでは鬱々として、ともすれば自分でも制御不可能なぐらいの凶暴性が露わになりそうなのを必死こいて抑えつけていたのが、セネカのこの一節を偶然ながら読んで鎮まったのである。単純という勿れ。親族と争うこと程気が重く、さっさと蹴りをつけたいと望むことはないのだ。モナミ、あなたも経験してご覧、わかるから。
話がすべて終わり、連衆が帰ったあとはその場で全身から一気に力が抜けてゆくのを感じた。相手が自ら掘った墓穴に気附かぬままなのを苦笑しながら、味方の親戚が出してくれたビールを業者さんと一緒に飲んだ。美味かった。帰りの電車のなかでは放心状態が長じて、乗り換えたあとはぐっすり下車駅まで眠ってしまった。母が起こしてくれるまで泥のように眠った。
これであともう1つの懸案事項が実れば完璧な幕引きになったろうが、そうはならなかった。それは良かったのかもしれない。──幸いとむくつけきあの連衆とはその後、声を聞くことも顔を見ることもない。
いまでもセネカを読み返す。図書館で『セネカ全集』を手に取り、ページを開いて閉じることもある。それが弾みとなったか、買ったままで殆ど手附かず──拾い読みと関心のある部分だけ精読したセネカと同じストア派のエピクテトス『人生談義』上下(旧訳である。翌年新訳が出た。鹿野治助・訳 岩波文庫 1958/07)とマルクス・アウレリウス『自省録』(神谷美恵子・訳 岩波文庫 1956/10)を会社の昼休憩の折など読んで過ごした。関係ないがショーペンハウエル『読書について』の新訳(鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫 2013/05)をようやく読んだのも、この頃か。気鬱な田舎への旅のあとである。一昨年の秋の暮れである。◆
一マカ11:1-19〈エジプト王の野心と死〉
エジプト王、プトレマイオス6世フィロメトルにはアレキサンドロス5世の王国を手中に収める企みがあった。
そこでエジプト王はデメトリオスと協定を結んだ。そのため、いちどはアレキサンドロスに嫁がせた娘クレオパトラ・テアをデメトリオスの妻に与える。斯くしてエジプトとシリアはわずかの友好の季節を解消し、ふたたび敵国同士となった。
その頃、アレキサンドロス5世はアンティオキアを留守にしていた。北西のキリキア地方へ反乱鎮圧に赴いていたのだ。プトレマイオス王の企みを知ったアレキサンドロス王は身の危険を感じ、アンティオキアへは戻らず、息子や部下たちを連れてアラビアの砂漠地方へと逃げこんだ。
が、かの地でアレキサンドロス5世はアラビア人のザブディエルに殺されたのである。首はプトレマイオス王の許へ届けられた。そのプトレマイオス6世はその数日後に崩御した。
そうしてデメトリオスがシリアの王位に就いた。デメトリオス2世の誕生である。時にセレコウス紀167年即ち前146年。
一マカ11:20–29〈ヨナタンの巧妙な駆け引き〉
ヨナタンの許にデメトリオス2世からの伝令がやって来た。伝令は王の命令を伝えに来たのである。曰く、エルサレムの要塞を攻撃する準備をしていると聞いたが本当か、もし本当ならただちにその仕度をやめて、プトレマイスに来て事情を説明してもらえないか、と。
ヨナタンは命令を無視する気持ちでいたが、プトレマイスには赴くことにした。長老と祭司から同行者を選び、多くの贈り物を携えて。
王の歓迎を受けたヨナタンは、大祭司職をはじめとする自分が与っている栄誉を共々確認したあと、その場を利用して交渉を持ちかけた。即ち、ダヤ、アファイレマ、リダ、ラマタイム、サマリア各地方の租税免除の嘆願と、その代わりとして300タラントンを支払うという申し出である。
デメトリオス2世はこれを快く承諾し、ヨナタンに確認の書簡を送った。「父ラステネスへ書き送る書簡と同じ内容を、ヨナタンに送る」と始まるその書簡に曰く、──
一マカ11:30−37〈ヨナタンにあてたデメトリオス王の書簡〉
私デメトリオス2世は以下の恩恵を、忠義のユダヤ人に与える。
01;ユダヤ全土とアファイレマ、リダ、ラマタイムの3地区をかれらの土地として承認する。
02;エルサレムでいけにえをささげるすべての者から、地の産物税と果実の税を廃止する。
03;これまで私が受けとっていた各種の税、即ち十分の一税、塩税、王冠税、他の諸税すべてをかれらに譲渡する。
04;今後永久にこれらの事項に関して取り消されることがあってはならない。
──以上。
王はこの書簡を、聖なる山の目立つところへ掲げさせた。
一マカ11:38-53〈ヨナタン、デメトリオスを援助する〉
デメトリオス2世の領内には平穏の日々が続くようになった。反乱を企てる者も、その動向を知らせる報も絶えた。そこで王は異邦の島々から雇った騎兵部隊だけ残して、自前の軍隊を解散させて兵を故郷へ帰した。これが兵士たちの不満の種となった。
さて、アレキサンドロス5世に仕える武将に、トリフォンという者がいた。かれは兵士たちの不平不満の声を聞き、秘かにアラビアへ出発した。先王の遺児でいまはアラビア人イマルクエに育てられているアンティオコスを還してもらい、これを担いで反デメトリオス戦の狼煙をあげようというのだった。交渉は順調に進み、返還は為され、トリフォンはシリアへ急行した。
刻を同じくして、反デメトリオスの運動が湧き起こった。市民が波のように王都へ押し寄せた。デメトリオス2世はヨナタンに救援を依頼した。ヨナタンは精鋭3,000人を送りこみ、反乱を鎮圧させた。反デメトリオスの運動に参加していた人々は消沈し、投降した。
そもユダヤ軍の派兵は同盟ゆえとはいい切れぬものがあった。デメトリオス2世が自国の反乱鎮圧を要請してきたのに乗じて、ユダヤ国内に駐留するシリア軍の撤退を求めてそれを王が承諾したからである。この一件のおかげでユダヤ人たちは面目を施した。
が、王座に戻ったデメトリオス2世は国内にふたたび平穏が戻ったと見るや、ユダヤからの軍撤退を反故にし、その後もヨナタンたちを悩ませ続けたのである。
一マカ11:54-74〈アンティオコスとヨナタンの同盟〉
トリフォンがアンティオコスを連れて帰国した。幼きアンティオコスはアンティオコス6世として王位に就き、新たな王の許へ解雇された兵たちが集まった。かれらはデメトリオス2世に戦いを挑んだ。デメトリオス2世は敗走した。トリフォンは象部隊を率いてアンティオキアを制圧した。
斯くしてデメトリオス2世のシリア単独支配は終わり、このあと数年の間、2人の王がシリアの王位に在った。セレコウス紀168年即ち前145年のことである。フランシスコ会訳聖書当該箇所の註釈に拠れば、シリア東北部の民がデメトリオス2世を支持し、西部地方の民がアンティオコス6世を支持した、という(P1163 註14)。
アンティオコス6世はヨナタンに書簡を送り、改めてのユダヤ自治とヨナタンの職掌を確認し、兄弟シモンを「『ティルスの階段』から、エジプトの国境に至るまでの地域の総司令官に任命した。」(一マカ11:59)この地域にはプトレマイス、アシュケロン、ガザなどが含まれる。
ヨナタンは王から与えられた地中海沿岸地域の町の平定にあたった。シリア軍のすべてが同盟軍としてかれの下に従いた。アシュケロンを平定し、ガザでは抵抗に遭ったが周辺都市に火を放ち、略奪する様を見せつけたことでこれも平定した。
それから(エルサレムを擁す)ユダヤ地方を西に横断、ヨルダン川を渡りギレアドを通過して北上、ダマスコの町へ向かった。更にデメトリオスの残党部隊が兵力を集めてガリラヤのケデシュに入ったことを知ると、これを撃破した。また、ゲネサル湖畔に陣を敷きハツォル高原に進軍して異邦人の軍隊を相手に戦ったが敗走、が、再戦を挑んで今度はこれを撃破した。
シモンはベトツルに向かって陣を敷き、数日にわたって攻撃を繰り返して、敵を降伏させた。
ヨナタンもエルサレムへ帰ってきた。
本文にも反映させましたが前145年からシリアは2人の王を擁して、内紛が続きます。最終的にはデメトリオス2世がアンティオコス6世を退け、かつ弟のアンティオコス7世に代わってふたたび王位に就くのですが、これはまだしばらく先のお話です(前129年)。
なお『旧約聖書続編 スタディ版 新共同訳』P114の一覧「マカバイ記一・二におけるセレコウス朝とユダヤ教の指導者」には1箇所、誤植がございます。「アンティオコス4世エピファネス(前145-142年)」は「アンティオコス6世」が正しい。この本を読んだり参照される際は十分お気を付けください。それとも重版かかって誤植は訂正されているのかな?
さて、そのデメトリオス王ですが、本章で自国の軍隊を解散させる、という愚挙に出ます。平和が続いているから軍隊は不要である、という論が王自身から出たのか、或いはクーデターの首謀者格の役人が吹きこんだのか、定かでありません。が、結果としてトリフォンの王位簒奪をやりやすくする行為でもありました。
反デメトリオスのクーデターは、解雇されたシリア軍人が発火点になったことはまず間違いない。解雇された兵の、再雇用や家族の生活保障もないまま路頭に放り出した王への怒りは、如何程だったでありましょう。そこに、シリア軍の武器製造や部品の調達にかかわる商人たち、保管庫の担当者や軍務に携わるあらゆる人たちの不満がそこに合流。それが飛び火して一般市民が常に政治や官僚に対して抱く不満や不平を爆発させる。斯くして「異邦の島々から雇った傭兵部隊」(一マカ11:38)だけでは鎮められない、激情に駆られた反乱の出来上がりであります。
反乱はいちおう(王の要請を受けた)ユダヤ軍の介入により収まりましたが、正直なところ、よくデメトリオスの王位が揺るがなかったな、と思うのです。ユダヤ軍が助勢したから詳しく書き留められたのでしょうけれど、他国の反乱鎮圧の要請を承けてユダヤ軍が──イスラエルが動いた例というのは、あまりなかったように記憶します。エジプトのファラオがバビロニア軍を攻撃するにあたって南王国ユダが援軍を差し向けた、というのはありましたが……。
このようにデメトリオス2世の国家運営には根本的致命的な欠陥がありました。軍隊を解体した国家が自国で有事に遭遇した際、外国の救援を頼まねばならない状況になるのは必然。軍隊を解散させた時点で想定しておくべき事柄でありました。脳ミソが蕩けてお花畑が咲き誇っていたのでしょうか。有事の勃発を念頭に置いて行動できぬリーダー、危機管理能力の欠落したリーダーをトップに戴いた組織こそ哀れなるべし。まるでどこかの国みたいな泰平天国ぶりでありますな。
そも反乱が起こった際、傭兵部隊はなにをしていたのですかね? 先に賃金を要求したのでしょうか。それともちょっとだけ戦って、手に負えないと見るや海を泳いで帰ってしまったのか。
解雇されて食いっぱぐれること、自分は勿論家族も養えなくなること、生活の保障がなくなること、かつ残されたのが=優遇されたのがいわば外人部隊であったこと、この4点が大雑把にいえばシリア軍人の、政府ならびに王への反感を募らせる結果となった。まぁ、そうなるわな。
王は良かれと思うたかもしれないが配慮不足、残すべき人材の選択を間違えました。これが件の反乱につながってゆくのですが、このとき解雇された兵たちは、新たに即位を宣言したアンティオコス6世の下に集まってきて、元の雇い主に戦いを挑んでゆく。積もり積もった怨みつらみがかれらを動かしたでありましょう。その勢いに推されたか、デメトリオス2世は敗れて敗走したのでありました。
一昨年の秋であった。気鬱な田舎への旅であった。終われば2度と遭わずに済む、顔を合わせる用事がなくなることだけが救いだった。
先祖来のお墓を終うことにしたのである。たまたま生き残っただけに過ぎない叔父のしゃしゃり出に愛想を尽かし、一気に片を付けて縁を切る覚悟を固めたのである。
祖母から騙し取った兄弟名義の株や債権の名義変更を巧みに行って、換金した数1,000万をすべて自分のものにして子供3人を育てて自宅をリフォーム、会社も興した叔父である。そんな薄汚く後ろめたいお金で育てられたアレの息子娘たちは、その事実を知っているのか。
とまれ、いまは顔を合わせることも年始の挨拶もしなくて済んでいる。アレとその妻、子供たちが死んでも葬儀の席に出向くことはないだろう。こちらも連絡はしない。これ以上の平等がどこにあろう? 文句を言われる筋は、どこにもない。覚えておけ。
さて、本題。
田舎への電車のなかで、セネカを読んだ。『孫子』にするか迷ったが、洒落にならないのでセネカを選んだ。戦争するつもりでいたからその前にクラウゼヴィッツ『戦争論』にも目を通したが、これは流石にお門違いも良いところだった。
で、セネカである。心をなるたけ平坦にしておきたかったのである。闘争心に火を注ぐ読書ではなく、むしろ逆に静穏に努めたかった。ページの片隅をいちばん多く折ったのは、「心の安定について」である。これを契機に古代ギリシアの哲学者たちを読むことも増えてきた。
そのセネカのなかで特にそのとき、心に響いたのは、こんな一節であった。曰く──
「まんまと成功した悪事の山が、どれほどあるだろう。あるいは、貪欲が、どれほどの利益と損害(いずれも忌まわしいものだ)を得ているだろう。……そんなもののことを考えていると、まるで、徳が次々と消え去っていくかのように、精神が闇に包まれていく。……だからこそ、われわれは、ものの見方を変えなければならない。人々が持つ欠点すべてを、忌まわしいものとは思わずに、笑うべきものと思うようにするのだ。……だから、われわれは、なにごとも軽く見るようにし、心を楽にして、ものごとに耐えるべきなのである。人生を嘆き悲しむより、笑い飛ばしたほうが、人間的なのだ。」(P254-246 中澤努・訳 光文社古典新訳文庫 2017/03)
──と。
ここを読んだのは、大きな山また山を越えているときだった。もうすぐ田舎に到着する、という時刻だ。それまでは鬱々として、ともすれば自分でも制御不可能なぐらいの凶暴性が露わになりそうなのを必死こいて抑えつけていたのが、セネカのこの一節を偶然ながら読んで鎮まったのである。単純という勿れ。親族と争うこと程気が重く、さっさと蹴りをつけたいと望むことはないのだ。モナミ、あなたも経験してご覧、わかるから。
話がすべて終わり、連衆が帰ったあとはその場で全身から一気に力が抜けてゆくのを感じた。相手が自ら掘った墓穴に気附かぬままなのを苦笑しながら、味方の親戚が出してくれたビールを業者さんと一緒に飲んだ。美味かった。帰りの電車のなかでは放心状態が長じて、乗り換えたあとはぐっすり下車駅まで眠ってしまった。母が起こしてくれるまで泥のように眠った。
これであともう1つの懸案事項が実れば完璧な幕引きになったろうが、そうはならなかった。それは良かったのかもしれない。──幸いとむくつけきあの連衆とはその後、声を聞くことも顔を見ることもない。
いまでもセネカを読み返す。図書館で『セネカ全集』を手に取り、ページを開いて閉じることもある。それが弾みとなったか、買ったままで殆ど手附かず──拾い読みと関心のある部分だけ精読したセネカと同じストア派のエピクテトス『人生談義』上下(旧訳である。翌年新訳が出た。鹿野治助・訳 岩波文庫 1958/07)とマルクス・アウレリウス『自省録』(神谷美恵子・訳 岩波文庫 1956/10)を会社の昼休憩の折など読んで過ごした。関係ないがショーペンハウエル『読書について』の新訳(鈴木芳子・訳 光文社古典新訳文庫 2013/05)をようやく読んだのも、この頃か。気鬱な田舎への旅のあとである。一昨年の秋の暮れである。◆
2021-12-20 02:00