第3355日目 〈「エズラ記(ラテン語)」前夜〉 [エズラ記(ラテン語)(再)]

 旧約聖書外典とされながらカトリックでは第二正典と扱われず、プロテスタントでも退けられている「エズラ記(ラテン語)」(以下、「エズ・ラ」)でありますが、ギリシア語訳からラテン語に重訳された本書は長く中世のカトリック教会では読まれてきた書物でありました。「正典とは認めていないけれどそれに準ずる書物」という受け取られ方だったようです。
 今日では新共同訳と聖書協会共同訳に「続編」の1冊として読むことのできる「エズ・ラ」ですが、これを取りあげた研究書や概説書は数多あれど所謂註解書の類を持たぬことが、余り読まれていない最大の理由なのかな、と思います。依拠するに足るのが此度の再読テキストに採用した『旧約聖書続編 新共同訳 スタディ版』(以下、『スタディ版』)だけとあっては読者層の広がりは到底望み得ぬことではあるまいか、などと心配になってしまいます。
 前置きはこのぐらいにして、それでは「エズ・ラ」とはどのような書物なのか? 誰が、いつ、どこで書いたものなのか、簡単ながらお話しようと思います。
 まずお伝えしておかねばならぬのは、「エズ・ラ」が3つの書物で構成されていることであります。第1-2章は「第5エズラ記」、第3-14章は「第4エズラ記」、第15-16章が「第6エズラ記」とそれぞれ呼ばれている。中核を成す「第4エズラ記」が最も古く成立して、「第5エズラ記」と「第6エズラ記」は後代に執筆、補われた部分とされます。
 誰が、いつ、どこで、という問題について私見も交えながら書きますと、以下の通り。まずは「第4エズラ記」から、──
 「第4エズラ記」は別に「第二エスドラス書」とも呼ばれますが、これの執筆時期は、エズ・ラ3:1「都の陥落後三十年目のこと」を根拠に、66-70年のローマ帝国とユダヤの間に勃発した<第一次ユダヤ戦争>から30年後、即ち100年前後の執筆と考えられております。
 エズ・ラ10:21-23はローマ軍がエルサレムに侵攻して神殿を破壊したり、住民が虐待、殺人、暴行、連行、略奪されたことを、かなり直接的に綴っていることから、本書の著者は当時、エルサレムの陥落、第二神殿への放火・焼失を目撃した人物であったろう、と秦剛平は『旧約聖書続編講義』で指摘する(P296 リトン 1999/11)。
 ではその著者とはいったいどのような人物(どこの誰、ではなく)であったか、ですが、律法に精通していることや、本書が律法にまつわる諸問題(律法と信仰のせめぎ合い、など)がかなりの比重を占めていることからファリサイ派、しかもディアスポラではなくエルサレム在住のラビであったろう、と考えるのがいちばん自然な結論であるように思えます(ファリサイ派についてもずっと予告しております手前、早く書かなくてはなりませんね)。
 ラビはユダヤ教の聖職者のこと。聖書と口伝律法の註解者であることから特に「学僧」の側面が強い存在といえましょう。ハリイ・ケメルマンにラビを主人公にした推理小説のシリーズがありました。
 「第4エズラ記」はこのラビが諸国のユダヤ人社会──ディアスポラのユダヤ人たちの共同体──を行脚して回り、同胞の信仰が神から離れてゆくばかりなのを嘆いた(エズ・ラ3:33「わたしは諸国を経巡り、あなたの戒めを心に留めていないのに繁栄している人々を見ました。」)ことが、本書執筆の根っこになったでありましょう。
 実際に「エズ・ラ」、「第4エズラ記」を読んでおりますとこのあたりの根っこが転じて、どうして神は自分の民を敵の手に渡したのか、不敬虔な者がなぜこの世を謳歌しているのか、どのような罪を背負ったがゆえにイスラエルは救われぬ存在となっているのか、という、「第4エズラ記」で頻出する疑問とその導き──エズラ/サラティエルと天使ウリエルもしくは主なる神との問答──につながっているようであります。
 わたくしは前段で、「エズラ(サラティエル)」と書きました。これを出発点にして本書が孕む問題点を洗い出してみましょう。問題点とは、後述の「第5エズラ記」と「第6エズラ記」を前後に補完して「エズ・ラ」がキリスト教文書化された際の加筆、もしくは書き直しと思われる箇所で、2点あります。即ち、──
 ①エズ・ラ3:1「わたしサラティエル、すなわちエズラはバビロンにいた」
 ②エズ・ラ7:28-29「すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、……その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ」
──であります。
 ①に関してはこのようなことがいえるのではないでしょうか。つまり、本来「第4エズラ記」はサラティエルなる人が書いた、もしくは執筆者に擬えた人の手に成る。そうして、キリスト教文書化の際その作業にあたった人──荒廃したエルサレム復興に尽力したエズラに憧憬を抱くか、或いはかれによって再度エルサレムが輝かしい都として壮麗な姿を取り戻すことを願った誰かの手によって、斯様な加筆(わたしエズラ)、が行われた、と。
 ②について作業を行ったのが「第5エズラ記」の著者なのか、「第6エズラ記」の著者なのか、或いはまったく別の人物なのか定かでありません。しかし、「イエス」も「キリスト」も皆さんご承知のようにキリスト教の重要単語であります。イエスは勿論キリストもユダヤ教の単語ではない。
 ユダヤ教に於いて「キリスト」に該当する単語は「メシア」であります。共に「救世主」、「救い主」の意味ですが、ユダヤ教では「キリスト」という単語ではなく「メシア」という単語がその役を担う。問題の箇所は本来2箇所とも、「メシア」と書かれていたのでありましょう。それがキリスト教文書化するにあたって件の箇所も斯く書き換えられた、それがそのまま今日に伝わっている──そう考えるのが最も可能性の高いところではないでしょうか。
 もう一点、「第4エズラ記」はその結末部分を欠くが同書のオリエント諸語訳にはそれがあることをお伝えしておきます(エズ・ラ14:48-50)。当該章の感想でそれを述べておきました。
 「第4エズラ記」については以上であります。次に「第5エズラ記」と「第6エズラ記」ですが、これはもうちょっと簡単にお話ができそうです。まず「第5エズラ記」(エズ・ラ1-2)から始めます。
 これの執筆時期ですが、(新約聖書に収まる)共観福音書や「ヨハネの黙示録」の引用が目立つので、それらが成立した時代から然程離れていない時期に書かれたのではないでしょうか。
 では共観福音書と「ヨハネの黙示録」の成立時期はいつなのか、ということですが、これはかつてわたくしがそれぞれの〈前夜〉にて述べたものがありますのでそれを踏まえて申しあげれば、「マルコ」は<第一次ユダヤ戦争>終結から数年後、「マタイ」は80年代初頭、「ルカ」は80年代から90年代に(「使徒言行録」よりも前に)、「黙示録」は90年代に、それぞれ執筆されたようであります。──ここから導き出される「第5エズラ記」の推定執筆時期は「第4エズラ記」と同じ時期(100年前後)、もしくはそれ以後、と考えるのが無難でありましょう。
 誰が書いたか、ですが、上記を踏まえれば2世紀キリスト教会の誰彼であったろか、ぐらいしか考えられないのが正直なところであります。
 といいますのも、「第5エズラ記」には共観福音書や「ヨハネの黙示録」を援用している部分が多いのですが、別々に存在していた「第4エズラ記」と「第6エズラ記」を合本してキリスト教文書へ仕立てあげるにあたり、その露払い的文書、序章のような役割を持って書かれたのが「第5エズラ記」かもしれないてふ疑いを、読み手としては拭えないからであります。
 ちなみに、共観福音書と「ヨハネの黙示録」の表現、論法を踏まえた箇所ですが、当該章の感想に反映させられなかったのでここで記しておきます。以下のようになります、──
 エズ・ラ1:30→マタ23:37
 エズ・ラ1:37→ヨハ20:29
 エズ・ラ2:35→黙21:23-25並びに同22:5、併せてイザ60:19-20
 エズ・ラ2:42→黙7:9
──と。他に「出エジプト記」や「申命記」、「詩篇」や上述の如く「イザヤ書」などを連想させる文章、表現もございます。
 最後に「第6エズラ記」。
 執筆時期を推定させる材料が本書には潜んでおります。ここから執筆時期が推測できましょう。つまりエズ・ラ15:29-33に「アラビアの竜の民」とカルモニア人の戦いの描写がある。「アラビアの竜の民」はパルティア国のオダエナトゥス率いるパルティア軍、カルモニア人は旧アッシリアの領民、アッシリア帝国を構成する一民族と考えられます。
 この戦いは3世紀中葉──既に「終わりの始まり」がゆるやかに進行していた〈危機の3世紀〉──、ローマ帝国の周縁領地が、東から北から、蛮族に攻めこまれて防御で明け暮れた時代の極地紛争の1つであります。ローマにとっては東の防衛戦を死守する意味で重要な戦いにもなりました。にもかかわらずローマ帝国は自国の主戦力を東方へ割くことが不可能だった。北から攻めこむゲルマン族との攻防に戦力を注入せねばならなかったためであります。
 この戦いを記録した「第6エズラ記」の成立はその紛争以後、即ち3世紀終盤から4世紀初頭と考えて良かろうと思います。
 これの執筆者ですが、上述の時代を生きたユダヤ教徒と考えるのが大勢のようであります。ん、ユダヤ教徒? キリスト教徒、ではなく? 然り、ユダヤ教徒、と考えるのが大勢の様子。というのも「第6エズラ記」は「第5エズラ記」程にはキリスト教、今日でいえばカトリック教会ですが、の教理が余り反映されていない点があげられる由(秦 P308)。
 従って「第6エズラ記」は「エズ・ラ」を構成する3つの文書のなかでいちばん遅く成立したことになりますので、必然的に「第4エズラ記」のキリスト教文書化も「第6エズラ記」成立と同時代かそれ以後となり、それは即ち「エズ・ラ」の成立は同じ時期か少し遅れての時代になる、ということでもあります。
 要するに、こういうことです。ユダヤ教の黙示文学として伝わった「第4エズラ記」とキリスト者による「第5エズラ記」が余り変わらぬ時期に書かれて別々に存在してきたが、3世紀後半から4世紀初頭に「第6エズラ記」が成立して先行する「第4エズラ記」をキリスト教文書として取りこむ際、「第5エズラ記」と「第6エズラ記」が前後に補完されて今日見る「エズ・ラ」になった、と。成立史を乱暴にまとめれば、こうなると思います。
 「エズ・ラ」を構成する3つの文書について書いていたら、例によって長くなってしまったことをお詫びいたします。最後に、本書が教会やキリスト者の間でどのように受け取られてきたか、述べておきます。
 キリスト教文書化された「エズ・ラ」はその後、カトリック教会では第二正典になれなかったけれど広く読まれました。その内容が終末の予告のみならず、原罪の在処とそれゆえの人間が背負う罪の重さや、救われる存在になるため信徒はどのように現世を生きれば良いか、など如何にも信徒を導くに格好の教えがそこに記されていたからでありましょう。ただ、当該章の感想でも触れますが、第7章の要となる「代願の不可能なこと」は教理を否定するせいか写本が作られる過程で削除され、長くその存在を知られることがありませんでした。
 個人的なことをお話すれば、わたくしは──かつて読書に難渋した経験があるから尚更なのかもしれませんが──この「エズ・ラ」が大好きです。2014年12月15日からクリスマスまでの間に読んだときは「一寸先は闇」の状態で読んでいたけれどその後、『スタディ版』が刊行された際真っ先に飛びついたのは他ならぬこの「エズ・ラ」通読のためでした。
 そうして此度の再読を終えて一言させていただくと、「エズ・ラ」はたしかに黙示文学というに相応しい書物ではあるけれど一方で、主なる神による裁きや終末の予告が倩並べ立てられたあとでもたらされる、ほのかに射す希望の曙光のあたたかさ、慈悲深さ、厳しさのなかの優しさ、を感じられる点にこそわたくしが本書を握玩する理由はある、ということであります。
 まだまだいい足りぬ部分もあるような気がいたしますが、このあたりで筆を擱きます。
 それでは明日から1日1章の原則で、「エズラ記(ラテン語)」を読んでゆきましょう。◆

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