第3402日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉2/4 [日々の思い・独り言]

 戦後すぐの翻訳活動で目を引くのはワイルドとサッカレーの作品集である。本書にはサッカレエ『歌姫物語』解説が再録された。
 平井のサッカレーといえば岩波文庫に入る『床屋コックスの日記・馬丁粋語録』(1951/04)が最もポピュラーだが、戦後間もない時分には森書房から『サッカレエ・諷刺・滑稽小説選』全6巻8冊の企画があった。『小説選』のラインナップは本書446ページに載るが、『歌姫物語』はこのうちの1巻で、唯一の刊行物らしい、とのこと。
 『歌姫物語』は未見未読ながら前述の岩波文庫や改造社から出た『おけら紳士録』(昭和24/1949年)を読むと、そのやや古風で軽みと意気が調和した訳文のせいもあるのか、サッカレーと平井の親和性は八雲に次いで高く感じられる(由良君美もそう感じた一人のようで「最後の江戸文人の面影」並びに「回想の平井呈一」に発言がある。誰しも感じるところは同じか。いずれも『風狂 虎の巻』[青土社 1983/12]所収)。それゆえにこそ、「訳者は一生かかってサッカレエの全作品とは言わぬまでも、その代表作だけでもいいから、何とかして邦語に和げ移したいという念願を持って」(P331)いたのが企画頓挫の憂き目に遭い、実現しなかったことを心の底から残念に、恨めしく思うのだ。
 また、文中サッカレーという人を捉えて「浮薄な、卑屈な、傲慢な人間の属性は徹頭徹尾これを憎み、事それに関しては人間のどんな些細な言動からも、これを見抜く浄玻璃のような慧眼を彼は持っているが、人間そのものは決して憎みもしなければ、愚弄もしていない」(P330)と評すが、蓋し卓見といえるだろう。
 わたくしにはウィリアム・メイクピース・サッカレーという人を評した上記引用文が、平井呈一という人間の為人を端的に表現したもののように読めてならない。のみならずどうしても、師事した荷風と似て非なる部分を同時に見、邂逅と訣別は必然であった、とさえ思うてしまうのである。志向は似ていても平井の生き方や人生への責任は到底荷風には理解できない次元のものだったのだ……。
 ──全生涯を俯瞰して平井の仕事で最初から最後までその名の見えるのが、ラフカディオ・ハーン/小泉八雲だ。八雲については各社刊行訳書の解説・あとがきのみならず、各種紙誌に読書の手引や概論が寄稿された。歿後刊行の単著『小泉八雲入門』(古川書房 昭和51・1976/07)もある。文庫・単行本未収録の文章は『幽霊島』(創元推理文庫 2019/08)に入ったが勿論、本書にも八雲にまつわるエッセイが2篇、収録されている。
 恒文社版『全訳小泉八雲作品集』内容紹介と(平井「訳者のことば」の他、池田恒雄「刊行のことば」、小林秀雄・山本健吉両名の「推薦のことば」を付す)、NHKの番組用に録音されたものの書き起こし「小泉八雲──NHK『人生読本』より──」である。どちらも八雲を語って雄なる作物である。就中内容紹介「訳者のことば」の結び近く、「わたしどものとかく忘れがちな、心していたあるべきものが、八雲の書いたものの随所に、じつに心こまかに保存されている」(P356)とは生涯を通して八雲に親しみ、骨の髄までしゃぶり尽くした平井にして初めて明言できることであり、またわれら今日の読者へも実感を伴って迫ってくる言葉である、といえまいか。
 前述の通り類似した八雲関連エッセイは他にもあるけれど、こちらはこちらでまた異なる魅力や味わいを含んだエッセイであった。
 エッセイのパート、少々長くなるがあともう少しお付き合い願いたく思う。どうしても取りあげておきたいのは「翻訳三昧」と、講談社版「世界推理小説大系」月報の「翻訳よもやま話」、殊クイーン「神の灯」に触れた一文である。順番に、──
 「翻訳三昧」(『時事新報』昭和28/1953年3月号)は数ある平井の翻訳エッセイの1つで、面白さという点では他に抜きん出たものを持つ。特に結びの一文は最高だ。曰く、「道楽は稼ぎにならぬものだし、風流は寒いものときまっているから、いつまでたってもお金はいっこうに儲からない」(P334)と。なんとも江戸前、イナセな〆括りではないか。同時に一抹のペーソス漂う様がなんとも味わい深く、その落語のオチめいた言い回しも込みでいつまでも余韻が残る1篇となっている。本書に収められたエッセイのなかではいちばん好きだな。
 平井は5人のミステリ作家の諸説を翻訳した。カー、ヴァン・ダイン、セイヤーズ、デ・ラ・トーレ、そうして、クイーン。クイーンでは『Yの悲劇』と「神の灯」を手掛けている。奇しくもクイーンが生み出した2人の名探偵の代表作を訳した形だ。
 講談社版「世界推理小説大系」クイーンの巻にその「神の灯」を訳し下ろした際、平井は月報に寄せた「翻訳よもやま話」のなかで該作へ触れて曰く、「あの奇想天外な大トリックには、正直いうとこっちが面くらってしまって、あの二軒の建物の距離感が最後までつかめなかった」(P378)と。
 うん、わかる。いわんとしていることはわかるのだが……自身の翻訳とはいえ、ミステリは門外漢だからとはいえ、こうもアケスケに白状してしまう翻訳家がどこにあるのか。顔が青ざめてしまう程のキップの良さである。自分に正直で、仮面を被ったまま文章を書くことを潔しとしない人だったんだな、とつくづく感じ入ると共に、月報用の文章とはいえ受け取り、かつ掲載してしまう編集部の懐の深さに感心し、編集部が平井に寄せる信頼の厚さ深さを想像して羨ましく思うたりもするのだ。
 屋敷消失の大トリックを中心に据えた「神の灯」をわたくしは最初、井上勇・訳『エラリー・クイーンの新冒険』(創元推理文庫 1961/07 大学の最寄りのJR田町駅構内の古本市で購入した)で読んですっかり魂消てしまい、高校時代の友人を相手にお茶の水のモスバーガーで一時間ばかしその凄さや魅力を熱心に語ったものだが、彼方も此方も海外ミステリの、しかも本格と呼ばれる時代の作物は片鱗ぐらいしか知らぬ時分であったから、果たしてどこまで伝わっていたものやら。
 ……【エッセイ】はここまでにして、では【小説】に話題を移そう。

 平井呈一には『真夜中の檻』と題す、1冊の創作小説集がある。初刊は昭和35(1960)年12月浪速書房から中菱一夫名義で、現在は平井呈一名義で創元推理文庫から(2000/09)。和製ゴシックホラーの極北たる表題作と、現代風俗を巧みに活写した中編「エイプリル・フール」の2篇を収める(どちらも初刊本を初出とし、その後雑誌や各種アンソロジーに再掲された)。
 『平井呈一 生涯とその作品』で初めて活字となった未発表小説3篇──「鍵」、「顔のない男」、「奇妙な墜死」──はいずれも「エイプリル・フール」の系譜に属す。いずれも執筆は昭和30年代。ちなみになぜ「真夜中の檻」系統のものが書かれなかったかについては、解題にある荒俣が聞いた平井の言葉が回答になっていよう。曰く、「ああいうものは、あれでおしまいだよ」と(P443)。
 それでは、順番を入れ換えて述べてゆこう。
 まず「鍵」だが、荒俣によれば平井が試みた最も初期の創作ではあるまいか、とのこと(P438)。中菱一夫名義で載る。
 新聞記者の曽木が女に誘われて行った先で出喰わすのは……オチなんぞ到底書けぬ掌編だけれど、曽木が女に従って砂町から小名木川を越えて現場となる2階建てバラックへ至る道行の場面は一幅の淡彩画を観る思いである。
 舞台が本所深川、砂町の火事現場を端としてそのまま荷風の随筆「元八まん」の舞台へと移り重なってゆくあたり、荷風や芥川たちと同様、平井も大川(隅田川)、江東地区の引力に魂を囚われた文人の1人だったのかもしれぬ──そういえば荷風の許に出入りする前、平井が最も親近した文人は芥川であった──。もっとも本篇はかれらが描かなかった、描こうとしなかった工場街の裏手にまで筆が進んでいるのが特徴である。
 本篇はこの情景描写がいちばんの読ませどころなのだ。佐伯一麦が徳田秋聲の「あらくれ」を指して「ストーリーはあるがプロットはない、という印象を受ける」(『あらくれ・新世帯』P364 岩波文庫 2021/11)と評しているが、「鍵」についても同じことがいえる。
 ただ本篇は完成せられた1作、というより未だ推敲途上の作、とわたくしは受け止める。プロットへ肉附けが為された段階であり、このあとも改稿の心づもりがあったのではないか。殊程然様に完成した小説というには、まだまだ足りぬ部分があるように読めてならぬのだ。もしかするとこれ以上の発展、磨きあげは望めぬ、と放棄された作品であるのかもしれない。
 「奇妙な墜死」は「鍵」同様最初期の創作とされる(P440)。出来映えは、3篇のうちで最も下だ。連続強姦の果てに殺された女性が幽霊となるが、犯人への処罰を下すことなく放置し、恋人をあの世への道連れにする、という筋だが、良いは不穏な雰囲気で幕開く冒頭、市川真間手児奈堂、雨夜の描写のみ。
 解題のなかで荒俣は、本篇に3種の原稿が残されていることから「最も苦心して仕立てた」、「自信作だったことを裏付ける」作品というが、話はむしろ逆であろう。なかなか意に満たぬがゆえ何度も書き直す羽目になった。その結果として3種類の原稿が残った、と考えるのが自然なのではないか。3種の原稿すべてを並べて検証したりするなどができぬ以上、これも憶測の域を出ないが、そんなように考えるのである。
 本篇は中菱一夫名義で本書に載る。□

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