第3403日目 〈荒俣宏『平井呈一 その生涯と作品』を読みました。〉3/4 [日々の思い・独り言]

 3篇のうちで完成度の高さで最も優れているのが、「顔のない男」である。英国怪奇小説の匠たちの作劇術を自家薬籠のもとし、更に換骨奪胎して昇華してみせた、そうした面で「真夜中の檻」に肩を並べる作品である。もっといえば、本篇は平井の創作小説のうちで、「エイプリル・フール」と相和すジェントル・ゴースト・ストーリーの佳品といえるだろう。
 ストーリーは、いまはもうない東京晴海は国際展示場での全日本自動車ショー(後の東京モーターショー)の場面から始まる、敷地中央のプロムナードも含めてわたくしには懐かしい景色だ──同じ思いを抱かれる方もあろう──。子供時分の「宇宙博」が最初だが、その後はコミケ初参加(一般)まで晴海とは縁がなかった。
 そんなコミケ会場の雰囲気や光景──入場待ちの熱気や人いきれ、入場時と会場整理のてんやわんやぶり──を思い出してみると、昭和30年代に設定された「顔のない男」で描かれた自動車ショーの様子とあまり変わらないことを面白く思うた(ところで、「コミケ当日はかならず晴れ」のジンクスはもう過去のものになったようだが、屋内の会場待ち行列の上に自然発生する「コミケ雲」はいまでも見られるのだろうか?)。序でにもう1つ、思い出話をすれば有楽町の東京国際フォーラムにてかつて夏休み時分に行われていたキッズ・フェスタや、会場がフォーラム以外に置かれていなかった頃のラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの改札整理、クローク受付、会場案内等々でスタッフが皆息つく間もない程バタバタしていた様子も、同時に思い出した。
 これが書かれた昭和30年代の日本は、ちょうどモータリゼーションの時代を迎えていた。平井と起居を共にした吉田ふみには自動車修理工場の経営者へ嫁いだいとこがいたそうだ。2人は疎開先の新潟県小千谷市から東京へ戻ってきて間もない当座、一時的ではあるが新宿区西大久保にあったこの自動車修理工場の一角に間借りしていたこともある由。おそらく平井はそちらから自動車が一般大衆の手に届くようになった時代への関心を持つようになったのだろう、とは荒俣の言である(P130, P439)。なんというても「国民大衆車」(P237)だもんな……。
 創作小説集『真夜中の檻』所収の2篇でも明らかだが、平井は小説を書く際じっくりと書きこんでゆくスタイルを旨とした。細部を疎かにしない、ということだ。躯体部分の工事や造作に手を抜かない、ということでもある。必然的に作品の分量は多くなる。そうした細部が描きこまれることで、作品は緻密かつ濃密な仕上がりを見せるのだ。
 この緻密さ、濃密さがなにに由来するか? ──英国怪奇小説の匠たちの翻訳を通して体得した筆法である。就中M.R.ジェイムズの作劇術と怪異の表し方を自家薬籠とし、本作にて昇華させたように思う。なにげない日常の描写を積み重ねて、その合間合間に怪異の予兆や日常から逸脱する不穏な描写を紛れこませ、じわじわと真綿で首を絞めるが如き息苦しさ、重苦しさ、そうして居心地の悪さを味わわせた頂点で、ほんのりさり気ない一行で怪異を登場させる、とはM.R.ジェイムズの諸作と「顔のない男」に共通する作劇術である。
 余談だが、平井は東京創元社〈世界恐怖小説全集〉第4巻『消えた心臓 M.R.ジェイムズ』解説でジェイムズ文学の特質・作劇術を克明に説き(『真夜中の檻』P294-300 創元推理文庫 2000/09)、紀田順一郎主宰の「THE HORROR」にジェイムズの怪談実作エッセイ「試作のこと」を訳し(『幽霊島』P480-483)、英米の怪奇小説作家の技術を分析解剖したピーター・ベンゾルト『小説に於ける超自然』を読んでいたりした(『小泉八雲入門』P67 古川書房 1976/07)。
 また、伊豆湯ヶ島への道すがら交通事故の現場に行き合ったトラック運転手たちの会話、この突き放した場面はなにやらアーサー・マッケンの傑作長編、『夢の丘』の最後を連想させるではないか。伊豆のあのあたりはむかしもいまも公衆電話は滅多になく(子供時分、時々車で通ることあった地域だから、そんな記憶がよく残っている)、勿論携帯電話なんてない時代なのでドライヴァーたちの対応も宜ないところなのだが、やはりこの対比のくっきりした様、転換の見事さは巧いな、と思うのだ。
 「顔のない男」は中菱一夫名義の原稿と平井呈一名義の原稿の2種があり、本書への翻刻には後者が採用された由。
 【小説】はここで止め、【俳句】に移ろう。

 平井呈一(程一)が文学に親しむ最初のきっかけとなり、生涯にわたってその情熱の捌け口としたのが【俳句】であった。双子の実兄二代目谷口喜作と連れ立って自由律俳句の推進者、河東碧梧桐の門に入り、新聞雑誌へ盛んに投句したことはいろいろなところで語られている。
 が、実際にその当時の俳句をまとめた1冊はなかった。平井も生前自身の句集は持たず歿後、「呈一の謦咳に接した同人(引用者補記:無花果会会員)が、翁を慕うの念止みがたく、その菩提のために出版に踏み切った」『平井呈一句集』があるのみ(無花果会 昭和61・1986/12 引用:高藤武馬「解説」P182)。同書は「自撰句集」、「無花果句集」、「平亭其水遺稿」の3部より成り、合計438句を収める。どれも定型俳句へ移行したあとの句作であり、「碧門の一俊足」であった碧梧桐門下時代──自由律俳句の時代から最晩年までの俳歴を俯瞰する目的に適うことは、残念ながらできなかった。
 今回荒俣が協力者の助けも借りて碧梧桐主幹の句誌『海紅』を始め『東京朝日新聞』や『文章世界』などから発掘、本書へ収め得た平井作句は全部で294句、うち『句會まごめ 四』掲載18句中9句が、前述『平井呈一句集』と重複する。未発掘の句はまだまだあると思われるが、「打笑つたが何となく空つぽな冬の野で」を始めとする大正から昭和戦前、戦後すぐまでの作物がこれだけの数見附かり、読めるようになったことをまずは喜びたい。
 わたくしは俳句というものとさしたる縁もないまま暮らしてきた一歌詠みでしかない。精々が遊びで数句詠んだ程度だ。しかも若い頃の歌会の余興である。俳句といちばん関わりを持ったのは、亡き婚約者の遺句集を整理したときと、学生時代に近世俳諧史をみっちり学ばされ芭蕉「奥のほそ道」を精読した3年間ぐらいだ。母方の祖父が俳句を詠む人だったけれど、残念ながらその感化は受けなかった。
 そんな俳句については感性貧弱なわたくしながら、本書掲載句と『平井呈一句集』を通読してみて、思うていた以上に平井の俳句はその始まりの頃から──師に従って自由律俳句を詠んでも──定型の縛りから自由になること能わず、句風は殊の外穏やかで、ともすると貞門や一茶の、俗語、漢語を取りこんだ心自在な風を想起させもした点にすこしく驚きを感じた。
 ただその一方で、青年らしく際どいところまで踏みこんだ表現を採用した句もある。たとえば、「女自らを知る淺草の池水が黒い」(P395 『海紅』大正9年8月号)や「去りぎはの赤い袖口も曼珠沙華も彼女も」(P406 『文章世界』大正8年12月号)などである。──〈艶隠者〉、平井呈一(程一)は若くしてそんな言葉を思わせる俳句の作り手でもあったのだ。こうした句の詠み手が老境へ至ると、「老いそめて夫婦事なしさくら餅」てふ句を生むのだから、個人の創作の歴史、作風の変化というものは面白い(句集P43)。ちなみにわたくしはこの「老いそめて」の句が大好きで、ちかごろ頓に共感著しいのだ。
 その平井にまとまった俳論、俳話はない。作品を以て全てを語らしめよ、ということかもしれないが、短いもの、談話の断片でも構わぬからそうしたものが、たとえば無花果会の句誌などに載ったりはしなかったのだろうか。また、前述句集の高藤の解説や平井『小泉八雲入門』「八雲と俳諧」、佐藤順一『私の旅日記・順一雑纂』に紹介される平井書簡等から、平井の俳論を構築・類推することは難しいだろうか。或る程度まで輪郭を捉えることは可能であるように思うのだが……。
 それでは【俳句】についてはここで筆を擱き、最後、【呈一縁者による回想記】へ移ろう。□

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