第3398日目 〈”いま”必要な本を発掘しました。〉 [日々の思い・独り言]

 未だ文法書を捜索中。
 もうタイムリミットかもしれない。捜索打ち切り、見切りをつける、といい換えてもよかろう。どうして見附からない? 隔靴掻痒、とはこのようなときに使う言葉か。
 が、捜索の目的は達成できぬと雖もその途次、様々な、思うてもみなかったような発掘品に出合う体験を幾度もしたことで、わずかながら溜飲を下げることができているのも事実。
 きっかけは、隙間から筺の上端が覗いていた新潮日本古典集成『雨月物語・癇癖談』だった。折しも「浅茅が宿」現代語訳を進めているところだったから、これは一種の共鳴事案かも。その下にケネディ元米大統領暗殺レポートの翻訳書が埋まっているとは、流石に思わなかったけれど。
 既に所有しているとはつゆ思わず(=忘れていた)新たに古書店のサイトで購入検討していた本が、造り付け書棚のいちばん下の段から見附かったのは、幾らでもお話しできる数々の体験談の頂点を飾るもの。つまり、鵜月洋『雨月物語評釈』(日本古典評釈全注釈叢書 角川書店 1969/03)と『共同研究 秋成とその時代』(論集近世文学5 勉誠社 1994/11)の2冊である。
 前者は神保町の田村書店で購入したようだ。裏見返しに値札の半片がある。価格は不明、購入目録を繰れば、購入年月日も一緒に判明するかもしれない。繰り返しになるが先日から「浅茅が宿」現代語訳を1時間ばかり使って進めている関係で、どうしてもこれは必要だと感じていた。学生時代から勤労学生時代まで図書館で借りては読み、古書店の店頭でそっと覗いては溜め息吐いていたこの本があれば、もう『雨月物語』の評釈書の類を新たに買いこむ必要はない……どれだけ研究が進んだとしても、大系本と本書の水準を超える註釈書/評釈書が出てくるとは思えない。
 話が一瞬横道に逸れてしまった。仕切り直しをする。
 鵜月洋『雨月物語評釈』を購入していたとは、思ってもみなかった。危ない、危ない、発掘が遅かったらこの嵩のある書物(厚さ4.5センチ)をもう1冊、なんの必要もないのに買いこむところだった。……と思うていたら、この本には月報がない。古書店のサイトと昨日までにらめっこしていた際、本書の特記事項の1つに「月報あり」とあった記憶が。然るに此度発掘した、架蔵する本書にその月報はない。
 哀れ! みくらさんさんかは結局もう1冊、月報欲しさに注文を出すのである。余分の1冊は、さて、どうしましょうか。
 もう1つ、『共同研究 秋成とその時代』ですが、これがあることで(あることも忘れていたのですが)20代の時に書いてそのまま放ってあって、それでも続稿を書き継ぐ予定のあった「秋成交遊録」のようなシリーズ原稿を改めて書き続けてゆく自信がついた。欠けていたパズルの最後の1ピース、とは大袈裟に過ぎるかもしれないが、まさにそんな意味合いを持つ1冊を発掘したのである。
 さて、本当に肝心の文法書はどこにあるのだろうか……?◆

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