第3448日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。1/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 足利幕府が8代将軍、義政[01]の時代である。あづま路の道の果てよりもなお奥つ方、下総国は真間と呼ばれる里に勝四郎という男がいた。
 祖父の代からこの里に住んでいて、田畑を多く所有している。そのためもあって家はだいぶ裕福であった。
 そうした家に3代目として生まれた勝四郎は、優しいというてしまえばそれまでだが、生まれながらにしてざっくばらんな性格で、物事をあまり深く考えぬ人であった。それが災いして家業にあまり身を入れることなかったため、家はかれの代になるとたちまち傾き、親族郎党の鼻つまみ者、厄介者となってしまったのである。
 が、そんな勝四郎にもそれを気に病み、失地回復を図りたい、というつもりはあったらしい。どうにかして落ちぶれたわが家を再興する手段はないものか、とあれこれ思案に暮れていた。
 その頃、足利染め[02]の絹の取引で京都から関東へ毎年来ている、雀部の曾次、という人がいた。かれは関東へ下ってくるたび、一族の者が住まうこの真間の里へ顔を出している。その関係で曾次はいつしか、勝四郎とも面識を持つようになっていた。或る日、勝四郎は里へ来た雀部に向かって、
 「私もあなたのように商人になり、都へ行こうと考えているのですが、どうでしょうか?」
と、相談した。雀部は二つ返事で頷き、
 「いつ頃出発できそうか。早い方が良いのだが」
と、せっついた。
 雀部は商いの心得や、京都で商売するメリット、デメリット、等々それは熱心に、懇切に説明して、勝四郎を段々とその気にさせてゆく。
 雀部の話を聞いているうちに、だんだんとその気になってきた勝四郎。家に戻ると、さっそく上京の仕度を始めたのである。まず、人手に渡らずまだ残っている田畑をすべて売り払って、お金に換えた[03]。今度はそのお金で足利染めの絹を可能な限り買い付ける。勝四郎の、上京の準備は着々と進んでいった。
 ──ところで、勝四郎は独り身であったか? 否、である。宮木、という、誰もが美人と認める妻がいた。人目を惹く程の美貌の持ち主で、気遣いのよく行き届く、所謂〈できた〉嫁だったのだ。
 とはいえ、さすがに宮木も、今度の夫の京都行きの話には、開いた口が塞がらなかった。呆れ果てた、の域を超えていた。夫が商売に向いた性格でないことを、誰よりもよく知っていたからである。どれだけ言葉を尽くして諫めてみても、為すべきことを蔑ろにして考えの足りぬ勝四郎を翻意させることはできなかった。夫を心変わりさせるのを諦めた宮木は、不本意ながらも上京の支度を手伝い始めた。
 いよいよ明日が出発、という日の夜。一抹の淋しさを覚える宮木は明日からの、夫とのしばしの別れを惜しんでいた。
 「明日は早いのですよね」
 「ああ、そうだな」と勝四郎はいった。「当分、1人になるが、大丈夫か」[04]
 宮木は頭を振って、こういった。
 「そんなこと……。あなたの他に頼れる方などおりません。縋(すが)る方なき女の心には、憂い事ばかりが浮かんできます。あなたは男だからそんなこと思いもしないでしょうけれど、あなたの帰りを待つ女がこの真間にいることだけは、どうか忘れないでくださいまし」
 忘れるはずがない、と勝四郎はそっと妻を抱き寄せて、艶のあるその黒髪のひと筋ひと筋を指でかきやりながら、いった。
 「住んだことも知った人もない国で、お前を忘れる程長く過ごしたりするはずがないではないか。安心をし。この秋には、きっと帰ってくるよ」
 いよいよ実感されてきた別れを思い、頬を濡らす涙を拭いながら、宮木は、
 「命が思い通りになるならばともかく、明日のことなど誰にもわからぬのですから、どうぞ、この待つ女を心に留めて哀れとお思いくださいませ」
 夫婦は残された時間のなかで互いの想いを言葉にして伝え、そうしたあと勝四郎と宮木は時間を惜しんで相手を求め、荒い息の収まりと共に眠ったのである。
 そうして明け方、勝四郎は宮木に見送られながら雀部の曾次と連れだって、真間を発ち、京都への道を足早に進んでいった。
 ──なぜ、早く道を進んでゆく必要があったのか? 途中の鎌倉を中心に関東で戦乱の兆しがあったからだ。□



[01]8代将軍、義政
 →永享8/1436?延徳2/1490年1月(享年55) 足利幕府第8代将軍(在位;宝徳元/1449年4月?文明5/1473年)。父6代足利義教、母日野重子。次男。妻日野富子、息足利義尚(9代)。
 富子に子供が生まれなかったため弟義視を養嗣子とするも、富子には前述の如く義尚が生まれた。義視を支持する細川勝元と義政から義尚の後見を頼まれた山名持豊の対立が、その後10年に渡る応仁・文明の乱(応仁元/1467年?文明9/1477年)を引き起こし、1世紀超に及ぶ戦国時代(応仁元/1467年?永禄11/1568年)の幕開けともなった。永禄11年は織田信長が足利義昭を奉じて入京した年である。
 義政自身は文芸に秀でて後の東山文化を創出、東山に慈照寺(銀閣)を造営した。
[02]足利染め
 →下野国足利産の染絹。足利は現在の栃木県足利市一帯。「武家時代には、旗指物・陣幕・陣羽織等に、この足利染の絹や平絹の足利絹が用いられた」という(鵜月洋『有家物語評釈』P190 角川書店 1969/03)。『徒然草』第216段に「足利の染物」とある。
[03]人手に渡らず……
 →あとに残された宮木の生活の糧をすべて奪った、の意味にもなる。勝四郎の計画性のなさ、無意識の薄情さ、無計画な性格を表している。
[04]「当分、1人になるが、……」
 →お前の台詞じゃない!! と思うのはわたくしのみであろうか? 大丈夫か、と訊かれて、大丈夫ではありません、と率直に真情吐露できる宮木では、この頃はなかったであろう。ゆえに「気丈夫」と描かれ、また勝四郎帰国後はその胸で淋しかった、と訴える姿が余計にいじましく映るのではないか?◆

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