第3449日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。2/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 その年、享徳4(1455)年夏6月。遂に、関東で大きな戦いが始まった。後に、享徳の乱、と呼ばれる戦である。当時、関東支配の中枢を担う鎌倉には鎌倉公方という、たとえていえば地方長官がおり、その補佐役として、関東管領、という役職が設けられていた。
 勝四郎が京都へ出発したその年、鎌倉公方には足利成氏が、関東管領には上杉憲忠が、それぞれ就いていた。
 以前から折り合いの悪かった2人だが、享徳4年6月、それは決定的な局面を迎えた。即ち、鎌倉公方による関東管領の謀殺、である。これをきっかけに足利成氏は、鎌倉から上杉氏とそれに味方する勢力を一掃しようと企てた。
 それを知るや幕府はただちに、殺された憲忠の弟、房顕を後任の関東管領に任命し、それを頭とする軍勢を差し向けた。幕府軍は鎌倉に到着すると、公方の館を跡形もなく焼き払った。足利成氏は自分の所領がある下総国古河へ逃れたが、幕府軍との戦闘は続けられた。これが、関東一帯を大乱の舞台としたのである[05]。
 ──関東を戦乱が覆った。老人は山へ逃げ隠れ、若者は徴兵されていった。明日は何処其処が焼かれるぞ、次に戦場になるのは某所のあたりらしい、など、流言蜚語が飛び交った。それを聞いて、女子供は怯え、恐怖した。なにが正しく、なにがデマなのか、もはや誰にもわからなくなっていた。
 里の人が次々と真間を離れていった。それを見る宮木も、一時はどこかへ避難するのを考えたけれど、「この秋にはきっと帰ってくる」といい残して行った夫を信じて、里へ留まることを選んだのだった。
 その折に、宮木が詠んだ歌、──
  身の憂さは 人しも告げじ あふ坂の 夕づけ鳥よ 秋も暮れぬと[06]
──と。これは、約束の秋になっても帰る様子のない夫を恨めしく、淋しく、悲しく思うて詠まれた歌である。
 しかし、多くの国が下総と京都の間にあって、しかも、こんな御時世であるのも手伝って、この一首を想い人の許へ届けることは適わぬのだった。
 世のなかが乱れてゆくに従って、人心も卑しく、野蛮になる。──世に「好事魔多し」という。美貌で巷間に名を馳せる宮木であったから、夫子ある身なれどいまは独りしてそこに住むと噂が流れれば、近郷の男どもがいい寄ってくることは必至。実際、そうなった。それはしつこく、キモかった。ゆえに宮木は家の門戸を固く閉ざしてそれを拒み、遠国の空の下にいる夫を想い、帰りをひたぶるに待つのである。
 やがて宮木に仕えていた婢女(はしため)が去り、彼女は本当に独りぼっちになった。僅かばかりの貯えも底をついた。文字通り、明日をも知れぬ生活の始まりである。
 享徳4年が暮れて新年になったが、戦乱の収まる様子はまるでない。否、それどころではなかった。むしろ戦局は拡大してゆくばかりである。
 享徳4年秋には将軍義政の命令で、美濃国郡上に居を構える武将、東常縁が軍勢を率いて関東へ東下していた。
 その東常縁[07]、千葉氏の出自で、所領は下総国香取郡にある。常縁はここを本拠にして同族の千葉実胤と組んで、古河公方とそれに味方或いは加勢する者たちを攻めた。古河公方とは前の鎌倉公方、足利成氏を指し、かれの所領が下総国古河にあり、そこへ引っこんで戦いの足掛かりとしたので、「古河公方」の名がある。
 東常縁と千葉実胤の連合軍はよく戦った。が、古河公方もさるもの。善戦して件の連合軍を撃破することたびたびであった。斯様な次第で両者の戦いの結着は、なかなか着かなかったのである。
 庶民を不安にさせ、恐怖させたのは、なにも侍たちばかりではない。あちこちに山賊が出没して自分たちの砦を築き、近隣諸方の村々を焼き討ちにしては略奪するを繰り返した。
 もはや関八州に安寧の場所はない。なんとも嘆かわしく愚かな世となったものである。まさに戦争とは、世の営み全般に損失ばかりを与える行為といえよう[08]。□



[05]「足利成氏は自分の所領がある……」
 →関東一円を戦場とした、享徳の乱の勃発である。発端については本文で説明した。
 幕府は、成氏後任の鎌倉公方として将軍義政の弟正知を下向させた(長禄元/1457年 ※この年、扇谷上杉氏の執事太田道灌が江戸城築城)。が、抵抗に遭い鎌倉に入ることはできず、伊豆国田方郡堀越を拠点に成氏方と交戦した。正知歿後は息茶々丸が跡を継いだが北条早雲に滅ぼされた(明応2/1493年)。
 では、永享の乱(永享10/1438年?永享11/1439年)と並んで応仁・文明の乱の序幕と捉えてよいこの乱はどのようにして収束したか? 和睦したのである。まず文明9/1477年時の関東管領上杉顕定が古河公方足利成氏と和睦したのに続いて文明14/1482年、幕府と古河公方の和睦が成立して享徳の乱は終結した。
[06]「身の憂さは 人しも告げじ あふ坂の 夕づけ鳥よ 秋も暮れぬと」
 →典拠;『古今和歌集』巻十一 恋歌一 「相坂(あふさか)の木綿(ゆふ)つけ鳥もわがごとく人やこひしき音のみなく覧(らむ)」詠み人知らず(536)
[07]東常縁
 →応永8/1401年〜明応3/1494年頃? 本文に補記した如く、下総国の守護大名千葉氏の流れで、美濃国郡上郡にあった篠脇城の城主である。「浅茅が宿」では関東平定の武将として登場。この留守中、居城たる篠脇城を美濃守斎藤妙椿に奪われるが、落城を嘆く常縁の歌に感じ入って妙椿が城を返還した、という逸話がある。
 このことからもわかるように、常縁は武将であると共に、二条派の歌人でもあった(私家集『常縁集』、歌学書『東野州聞書』が今日まで伝わる)。が、今日常縁の名は専ら古今伝授の祖として、歴史に記される。
 古今伝授は「『古今和歌集』の解釈を師匠から弟子に秘伝すること」と『【詳解】日本史用語事典』(P153 三省堂 2003/09)あるが、生温い解説だ。も少し話せば、古今伝授は『古今和歌集』講釈と三木三鳥の切紙伝授を中心とする、二条家発祥の秘伝をいう。
 古今伝授は2つの流派からなった。1つは頓阿から伝わる二条流説を頓阿の曾孫堯孝(ぎょうこう)が養子堯恵(ぎょうえ)に伝え、堯恵が後柏原院や鳥居小路経厚らに伝授した<二条堯恵流>と、もう1つは堯孝から藤原為家(定家息。二条・京極・冷泉家は為家息をそれぞれ祖とする)から東家に伝えられ、東常縁から連歌師・宗祇へ、宗祇から三条西実隆や牡丹花肖柏らへ伝授され、そこから様々に分派した<二条宗祇流>の古今伝授だ。
 うち、三条西家伝授は実隆孫実澄(実枝)で一旦途絶えるが、実澄から伝授された丹後国田辺城主・細川幽斎が実澄孫実条(さねえだ)と八条宮(桂宮)智仁親王へ伝授したことで命脈を保った。智仁親王は後水尾院へ古今伝授したことで御所伝授が成立、これを中核として近衛家や飛鳥井家といった堂上貴族や有栖川宮家や閑院宮家へ伝わった。一方でこれまた細川幽斎が松永貞徳や北村季吟に古今伝授を行ったことで地下伝授も成立、諸派様々に全国へ伝えられた。もはやここまで来たら、飯の種、である。
 なお細川幽斎は関ヶ原の合戦の直前、居城たる田辺城を石田三成側の軍勢に囲まれ、籠城戦を余儀なくされたが、古今伝授の断絶を恐れた八条宮智仁親王の勅命で双方の間に講和が結ばれた。このエピソードは、古今伝授の歴史・逸話を語る際よく引き合いに出される。
 『雨月物語』執筆当時既に、古典や歴史に関心を寄せていた秋成が、「浅茅が宿」にて東常縁を登場させたのは、けっして史実に基づいてこの時代の様子を描いているばかりではあるまい。『古今和歌集』の秘伝古今伝授の祖としてその存在を知ることで、時代と文学の交差点を作中に留めおいた、という側面も考えられないか?
[08]「もはや関八州に安寧の場所はない。なんとも嘆かわしく愚かな世となったものである。まさに戦争とは、世の営み全般に損失ばかりを与える行為といえよう」
 →原文「八州すべて安き所もなく、浅ましき世の費なりけり」
 原文のままには現代語訳できないので、少々の補足と意訳を加えた。「浅ましき世の費」の中身を限りなく深刻に、民の悲しみや憤り、憎苦を濃縮すればそのまま、ロシアのウクライナ侵略戦争に重ね合わせられないだろうか。◆

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