第3456日目 〈現代語訳「浅茅が宿」;上田秋成『雨月物語』より。9/9〉 [近世怪談翻訳帖]

 寝ようとしてもなかなか2人共寝附けぬ晩だった。そんな晩、翁が問はず語りに聞かせた話に曰く、──
 「儂の祖父も、そのまた祖父も生まれていない、ずっと古のことだよ。この真間に1人の、それはそれは美しい娘御がおったそうだ。手児奈、というてな。身装(みなり)は質素で髪も梳らず、素足のまま野を歩き土を踏む、まぁ、田舎娘といえばそれまでだが、美貌で鳴らした人らしくその顔は望月のように冴え冴えと輝き、花がパッと咲いたような笑顔の持ち主だったそうだ。朝廷に出仕する女御更衣がどれだけ豪奢に着飾り、化粧に精出し、着物に香を焚きしめてみたところで手児奈の美しさに敵うものではなかった、という。
 そんな女であったから、里の男衆は勿論のこと、隣国や遠く都にまでその名は届き、評判を聞いた男は誰もが関心を抱き、なかには直接口説いてくる輩もあったらしい。が、手児奈はそんな男衆の浮ついた好意に靡くような女じゃなかった。いい寄ってくる男は1人の例外もなく退けたそうだよ。
 だがな、誰にも靡かなかったとはいえ、何人(なんぴと)も気附かぬところで深く憂いていたようじゃ。どうかして皆を傷附けることなく丸く収める方法を模索しておったのだろう。が、彼女の出した結論は、あまりに無残なものだった。つまりな、この先の入江に寄せて砕ける波間へ身を投げたのじゃ。むろん、助かろうはずはないな。
 古の人は手児奈の苦悶と最期を非道く哀れに感じて、その哀れの最たる例という意味も含めて歌に詠み、いまの世へ至るまで絶えず語り継いできたのだ。
 儂も子供の頃、手児奈の話は母から何度となく聞いたものだ。そのときの母の口ぶりときたら、お前、湿っぽくならぬよう淡々とした調子であったが、そんな風に話していても、手児奈の物語の悲しさというか、切なさやそういった感じは伝わってくるのじゃな。子供心にも哀れを誘われたものだったよ。
 手児奈のことを詠った歌か? たしか、こういうものじゃったな、──
  かつしかの 真間の入江に うちなびく 玉藻苅りけむ 手児奈し思ほゆ[29]
……もっと長いものらしいが、儂が子供の頃に聞かされていまでも覚えておるのは、この一首だけじゃ。
 それにしても、のう、勝四郎。お前を死して後まで想い続けた宮木殿の御心は、この手児奈のいじらしさ、真正直さにいっそう優って美しくありはせんかの?」
 ──漆間の翁の話はそうして終わった。翁は涙声である。仕方がない、話題が話題なのだから。加えて老齢になるにつれて人は涙脆くなってしまうものだから。
 いまや男やもめが確定した勝四郎の悲しみは、翁の比ではなかった。悲しみも極まるとその気持ちに言葉を与えて表現するのは困難なのである。
 翁の話を聞いて、真間の手児奈と妻なる宮木とを心のなかで重ね合わせていた勝四郎。およそ洗練とは無縁の、ゴツゴツした風合いながら、苦心して一首の短歌を詠んだ。無骨なるがゆえに却って思うことを正直に、飾ることも衒うこともなく、素朴な一首を読んだのである。曰く、──
  いにしへの 真間の手児奈を かくばかり 恋ひてしあらん 真間の手児奈を[30]
──と。
 故人への想いを十全に詠み得たとはいえないけれど、普段から歌を詠じることのある人のそれよりも、余程哀切の伝わってくる歌ではないだろうか。
 ……これは、仕事でしばしば下総国へ通う商人がかの地で聞いて、帰国後に誰彼となく伝えていた話をここに記録したものである[31]。□



[29]かつしかの 真間の入江に うちなびく 玉藻苅りけむ 手児奈し思ほゆ
 →出典;『万葉集』巻三「挽歌」433・山部赤人/長歌1反歌2の反歌-2。詞書「勝鹿の真間娘子の墓を過ぎし時、山辺宿禰赤人の作れる歌一首並に短歌」
[30]いにしへの 真間の手児奈を かくばかり 恋ひてしあらん 真間の手児奈を
 →出典/典拠:なし。秋成詠か。或いは周囲の歌人の作か。
[31]伝えていた話をここに記録したものである。
 →原文「かたりけるなりき。」は説話文学のスタイルを踏襲した〆括り方である。鵜月洋云「聞き伝えた話、語り伝えた話という意味で作品を結ぼうとするつもりで、こういう結語をとったのであろう」(P265 『雨月物語評釈』角川書店 1969/03)
 たとえば、『宇治拾遺物語』を任意に繙くと、次のような結語で〆括られる挿話が幾つもある。曰く、──
 「〜いひけるとか」 巻第十一・十一「丹後守保昌下向ノ時致経父ニ逢フ事」
 「〜とかたり侍けり」 巻第十・十「海賊発心出家ノ事」
 「〜となん人のかたりし」 巻第十・九「小槻当平ノ事」
──などである。秋成もこうしたスタイルに倣って、過去を舞台にした「浅茅が宿」を結んだのだろう。◆

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