第3516日目 〈『近世日本国民史』と『イエス・キリスト』の話。〉 [日々の思い・独り言]

 今日は断想、フラグメントである。

 徳富蘇峰『近世日本国民史』は講談社学術文庫版で、刊行点数の内だいたい半分強は架蔵していると思う。未だ元版が入手できぬため、こちらでどうにか渇きを癒やしている。秀吉の朝鮮出兵の巻だけが未文庫化と聞いた。それ以外は概ね揃っている様子だが、精確なところは、日頃の怠惰が祟って調べがついていない。
 講談社学術文庫版で読書や調べ事はじゅうぶん賄えるので(わたくしの場合は)特に不満を抱く点もないのだが、敢えて1つだけ述べれば、それは出典の未記載にある。
 文庫であれ元版であれ事情は同じだろうが、蘇峰の本文に同時代の史料、後世の信措くに値する資料が引かれているのは、既に本ブログの過去該当記事で触れた通りで、江湖に知られるところだ。が、蘇峰は時に、というかほぼ7割程度の確率で、引用する史資料の作者や出典を記さずに済ますところがある。これは、不便だ。
 第8章で神崎與五郎の筆になる不義士筆誅が引用されている。脱名者を痛烈に筆誅した、烈しい筆の勢いが神前の胸中激昂したることを物語る文章だ。読んでいて、流石に哀れを催させもする。しかしこの文書は、なんという書名であるのか。書名さえわかれば原文に行き着くことも可能だが、引用文の状態では赤穂義士の書き残して活字化された資料を端からあたる他ない。否、そもこれは綴じられた書物の形をしているのか。或いは誰彼に宛てた書簡もしくは報告書の類なのだろうか。わたくしにはわからない。
 勿論、上述した神崎與五郎の文書のみばかりではない。任意に巻を開けば、他にも幾らだってサンプルを見附けられる。その作業中に書名や出典を明示してあるものがあることも、気附くだろう。三田村鳶魚の随筆も唐突に現れて蘇峰の文章の補強を果たすが、それとて書名を明示することがあるかと思えば、そうでないときもある。前掲書、と一言あればこんなこと、書かないんですけれどね。
 時代がそこまで厳密でなかった、といえばそうなのか、と小首傾げつつ首肯せざるを得ぬ。
 こんな小さな不満を抱えながら、当分の間『近世日本国民史』〜「赤穂義士篇」を読んでゆく。

 話題をもう1つ。
 ようやく荒井献『イエス・キリスト』上下巻を揃いで見附けて、購入した。こちらも講談社学術文庫版。元版は講談社が出していた『人類の知的遺産』シリーズの1冊、「イエス・キリスト」である由。たしか同じシリーズでドストエフスキーや孔子など数冊持っていたが、さて、いまはどこに仕舞いこんだのやら。
 これまで上巻は何度も何度も、ブックオフでも古書店でも目にしていたけれど、上下揃いはなかなか見なかった。こちらが見落としている可能性は十二分にあるけれど、そんなこと言い始めたらキリがないね。
 そうしてようやく先日、特定健診の帰りに立ち寄ったブックオフで、2冊買っても1,000円を超えない価格で並んでいるのを見附けてねぇ……。煙草臭がしないこと、濡れシワ書込み等々ダメージのないこと、を確認して、勇んでレジへ運びましたよ。
 それから数日。ぱらぱら目繰っただけでまだ読書には至っていない。大系だった学習を受けていない身には難物であることだけはわかった。とはいえ、まるでわからぬ訳でもない。一応は聖書全巻を通読したのである。いまもその聖書は机上にあって、他の訳といっしょに並んでいる(参考文献も何冊かは)。そうしていまも折に触れて聖書を開いてその世界へ心を委ねる、或ることについて考える、時にはそれについて書いてみたりする。
 きちんと読む態度を見せれば、本は胸を開いてくれる。きっと荒井献『イエス・キリスト』もそんな本であるだろう。

 うーん。断想、フラグメントっていう言葉の使い方、間違ってるかなぁ。まぁ、いいか。てへ。◆

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